半坪ビオトープの日記

纏向古墳群、箸墓古墳

纏向古墳群、三輪山
二日目は午前中に箸墓古墳のある纏向古墳群を、午後は橿原考古学研究所附属博物館と新沢千塚古墳群を巡るハードな日程である。まず奈良駅近くの宿から箸墓古墳のある桜井市箸中に向かう。あと1.5kmほどで箸中に着く。ここから箸墓古墳まで真っ直ぐであり、正面右手に見える小山が三輪山467m)である。左手奥の山並みの裾には「山の辺の道」がある。

箸墓古墳近くから三輪山を眺める
箸墓古墳前から東を眺めると、左に見える山が三輪山であり、麓には大神(おおみわ)神社がある。遥か昔から神の山として崇められてきた。三輪山自体が御神体とされて、古来、本殿は設けず拝殿しかない。

纏向古墳群
この後訪れる黒塚古墳展示館での説明によると、纏向古墳群は三輪山の北西に広がる広大な遺跡であり、3世紀から4世紀にかけて大規模な水路や館が営まれ、九州から関東にまで至る広範囲から土器が持ち込まれた。「都市」的性格を有する遺跡であり、初期ヤマト王権成立の中心地だと考えられている。遺跡内には纏向石塚古墳など3世紀代に築造された出現期の古墳が点在して纏向古墳群と呼ばれる。手前に勝山古墳と矢塚古墳があり、奥の方に三輪山が見える。三輪山の右手前にあるのが箸墓古墳である。

箸墓古墳
ようやく箸墓古墳が見えてきた。北側から池の向こうに古墳が見えるが、右手が高さ約16mの前方部の右端で、左手が高さ約30mの後円部の中心付近である。

ヤブミョウガ
箸墓古墳を回り込んでいくと、池と反対側の古墳のくびれ部辺りの藪で白い花を見つけた。ツユクサヤブミョウガ属のヤブミョウガPollia japonica)という多年草で、東アジア(中国、朝鮮半島、台湾、日本)に分布し、日本では関東以西の暖地の林縁などの湿気の多い土地に自生する。8月頃に茎の先端に花序を伸ばし、白い花を咲かせる。花には両性花と雄花があり、白い花弁が3枚、白い萼も3枚、雄蕊6本、雌蕊1本で、花冠の直径は約8mmである。花後、球状の実は濃い青紫色になる。

箸墓古墳の前方部
ここが箸墓古墳の前方部の左端で、田んぼの向こうに遥拝所が見える。箸中山古墳とも呼ばれる箸墓古墳は、纏向古墳群の盟主的古墳で、出現期古墳の中でも最古級とされる前方後円墳である。被葬者は不明だが、宮内庁により「大市墓」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の陵墓に治定されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父・孝元天皇の姉妹である。『日本書紀崇神天皇10年9月の条に、夫・大物主神の小蛇の姿を見て驚き恥をかかせたと悔いてほと(陰部)に箸を刺して死んだので、その墓を箸墓という、との記述がある。一般に「三輪山伝説」という。続いて築造に関して、この墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んで作った、と記されている。

箸墓古墳の遥拝所

現在の墳頂は約278m、後円部は径約150m、高さ約30mで、前方部は前面幅約130m、高さ約16m。本来はもう一回り大きかった可能性もあるという。前方部は前面に4段の築成があるとされる。後円部は4段築成で、その上に小円丘が載るとする説もある。5段築成は箸墓古墳のみで、4段築成(3段築成で後円部に小円丘が載る)は、西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳、桜井茶臼山古墳メスリ山古墳、築山古墳などで、他の天皇陵(大王陵)クラスの古墳はすべて3段築成で、被葬者の格付けが想定されている。前方部斜面に葺石があり、埴輪列はまだ発見されていないが、吉備の宮山型特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ見つかり、2018年の調査で前方部の壺形土器と壺形埴輪は地元の土であり、後円部の土器は吉備地方のものであることから、箸墓古墳の造営に吉備勢力が大きな力を持っていたとされる。最古の埴輪である吉備の都月型円筒埴輪なども発見されている。

箸墓古墳の遥拝所
箸墓古墳の築造年代は諸説あるが、前日訪れた佐紀盾列古墳群の五社神古墳のところで既に記したように、石渡信一郎の説によれば、五王の前の崇神(旨)、垂仁(高)を含めた陵墓は、崇神箸墓古墳、垂仁・渋谷向山古墳、讃・行燈山古墳(伝崇神陵)、珍・五社神古墳、済・仲ツ山古墳、興・石津丘古墳、武(応神)・誉田山古墳となる。初代神武天皇の後の2代綏靖天皇から9代開花天皇までは『日本書紀』にほとんど事績がないので欠史八代として、10崇神天皇が実在の最初の天皇と考古学会でも認めている。『日本書紀崇神天皇条には、三輪氏の始祖である大田田根子及び四道将軍をして国を平定し、長男に関東を治めさせ、次男を後継にしたとある。石渡信一郎によれば、前期百済倭国と母国の金官加羅国の初代王となった崇神は、倭国の一部となった任那新羅の初代王でもあり、342年に31歳で即位し、379年に数え年68歳で死亡した。『日本書紀』には癸巳年に箸墓を造ったとあるので、築造は393年と推定している。箸墓古墳の周濠から布留0式(380409)古段階の土器も出土している。石渡によれば、337年に崇神の父が倭国の吉備で死亡したため、辰韓王となっていた崇神が吉備に渡来し、その後5年で前期百済倭国王になったので、吉備の特殊器台・特殊壺が箸墓古墳の後円部上で見つかったことは崇神と吉備との関係を示しているという。神武東征の途次、吉備に『日本書紀』では3年、『古事記』では8年滞在し兵糧を蓄えたとあるが、私の推測では、これも初代ヤマト大王と目される崇神と吉備との関係が反映している話と思う。

箸墓古墳

さて、今回の古墳巡りの最大の見どころである箸墓古墳の築造時期について思うのは、古墳の築造時期についての基準とされる、埼玉稲荷山古墳の礫槨から出土した鉄剣銘文にある「辛亥年」と「獲加多支鹵大王」の解釈問題である。考古学会の通説では「辛亥年」が471年、「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」を雄略天皇とされ、出土したTK47形式の須恵器の年代から古墳礫槨の実年代を「5世紀末葉〜6世紀初葉」と見ている。しかし、石渡信一郎は「辛亥年」が531年、「ワカタケル大王」はタケル大王とも呼ばれた武(応神)の子・欽明天皇で皇子時代にワカタケルと呼ばれていたと考え、TK47形式の須恵器の年代は551〜562年、つまり「6世紀中葉」と見ている。では「辛亥年」をワカタケル(欽明)大王が即位した531年と考える、石渡説を要約してみよう。①鉄剣銘文に使用されている「獲」は草冠がない異体字である。熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀には「治天下獲🔲🔲🔲鹵大王世」以後計75字の銀象嵌が刻まれ、「獲」の字には草冠がない。井上秀雄は草冠がない異体字が使用されている最古の金石文は、中国東魏時代(534〜550)としている。それゆえ稲荷山鉄剣銘文が、異体字が使用されている最古の金石文となる。②稲荷山古墳の発掘を指導した考古学者・斎藤忠は、「稲荷山古墳の年代は6世紀前半であり、辛亥年を531年と考えても必ずしも矛盾はない」と述べており、斎藤忠・大塚初重著『稲荷山古墳と埼玉古墳群』の年譜で「辛亥年」を531年としている。③稲荷山古墳の墳丘西側から出土した須恵器はTK23型の古相と見られる(橋本博文)。白石太一郎は『古墳から見た倭国の形成と展開』で、礫槨から鉄剣と共に出土した須恵器のTK47型式(551-562)から、古墳の造営年代を「5世紀の第4四半期ごろ」としている。稲荷山古墳の墳形は大仙古墳(伝仁徳陵)と同じと見られるが、石渡は大仙古墳の墓主は継体(男弟)大王で、同形式の稲荷山古墳を造営したヲワケノ臣の父、初代武蔵国造のカサハヤは継体の忠臣だと考えるため、稲荷山古墳の墓主はカサハヤと推定している。礫槨から出土した馬具セットの鈴杏葉の年代を、考古学者の白井克也はTK23〜47型式期とし、小川良祐はTK47型式期としている。④江田船山古墳の古段階の被葬者はTK47型式期(551-562)に、新段階の被葬者はMT15型式期(562-571)に、最新段階の被葬者はTK10型式期(572-588)に葬られている。新段階の被葬者が製作させた鉄刀の銘文には「典曹人」とあるが、「典曹人」は「文官」であり、継体時代(507-531)〜欽明時代(当年称元法で531-571)の官僚制度では稲荷山古墳鉄剣銘文の「杖刀人」の武官と対になっていたと見られる。以上の①〜④のことから、「辛亥年」はワカタケル(欽明)大王が即位した531年と、石渡信一郎は推定している。

箸墓古墳
「辛亥年」が531年でなく471年だとする考古学会の通説の問題は、日本の古墳の築造年代をほぼ60年古く査定することに繋がり、ひいては土器の型式時期も60年古く査定することに繋がっている。石渡信一郎は土器の型式時期や古墳の築造時期、さらには藤原不比等により隠された倭の五王や初期天皇の在位年代などを突き止めるために、『日本書紀』だけでなく、『古事記』、『続日本紀』、『宋書倭国伝、『旧唐書倭国日本伝、『史記正義』、『梁書』倭伝、『南史』倭国伝、『南斉書』倭国伝、『晋書』倭人伝、『隋書』、『三国史記』、『三国遺事』などの古文書の解読に努め、『倭の五王の秘密』で詳細に説明している。