現在の墳頂は約278m、後円部は径約150m、高さ約30mで、前方部は前面幅約130m、高さ約16m。本来はもう一回り大きかった可能性もあるという。前方部は前面に4段の築成があるとされる。後円部は4段築成で、その上に小円丘が載るとする説もある。5段築成は箸墓古墳のみで、4段築成(3段築成で後円部に小円丘が載る)は、西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳、築山古墳などで、他の天皇陵(大王陵)クラスの古墳はすべて3段築成で、被葬者の格付けが想定されている。前方部斜面に葺石があり、埴輪列はまだ発見されていないが、吉備の宮山型特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ見つかり、2018年の調査で前方部の壺形土器と壺形埴輪は地元の土であり、後円部の土器は吉備地方のものであることから、箸墓古墳の造営に吉備勢力が大きな力を持っていたとされる。最古の埴輪である吉備の都月型円筒埴輪なども発見されている。
さて、今回の古墳巡りの最大の見どころである箸墓古墳の築造時期について思うのは、古墳の築造時期についての基準とされる、埼玉稲荷山古墳の礫槨から出土した鉄剣銘文にある「辛亥年」と「獲加多支鹵大王」の解釈問題である。考古学会の通説では「辛亥年」が471年、「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」を雄略天皇とされ、出土したTK47形式の須恵器の年代から古墳礫槨の実年代を「5世紀末葉〜6世紀初葉」と見ている。しかし、石渡信一郎は「辛亥年」が531年、「ワカタケル大王」はタケル大王とも呼ばれた武(応神)の子・欽明天皇で皇子時代にワカタケルと呼ばれていたと考え、TK47形式の須恵器の年代は551〜562年、つまり「6世紀中葉」と見ている。では「辛亥年」をワカタケル(欽明)大王が即位した531年と考える、石渡説を要約してみよう。①鉄剣銘文に使用されている「獲」は草冠がない異体字である。熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀には「治天下獲🔲🔲🔲鹵大王世」以後計75字の銀象嵌が刻まれ、「獲」の字には草冠がない。井上秀雄は草冠がない異体字が使用されている最古の金石文は、中国東魏時代(534〜550)としている。それゆえ稲荷山鉄剣銘文が、異体字が使用されている最古の金石文となる。②稲荷山古墳の発掘を指導した考古学者・斎藤忠は、「稲荷山古墳の年代は6世紀前半であり、辛亥年を531年と考えても必ずしも矛盾はない」と述べており、斎藤忠・大塚初重著『稲荷山古墳と埼玉古墳群』の年譜で「辛亥年」を531年としている。③稲荷山古墳の墳丘西側から出土した須恵器はTK23型の古相と見られる(橋本博文)。白石太一郎は『古墳から見た倭国の形成と展開』で、礫槨から鉄剣と共に出土した須恵器のTK47型式(551-562)から、古墳の造営年代を「5世紀の第4四半期ごろ」としている。稲荷山古墳の墳形は大仙古墳(伝仁徳陵)と同じと見られるが、石渡は大仙古墳の墓主は継体(男弟)大王で、同形式の稲荷山古墳を造営したヲワケノ臣の父、初代武蔵国造のカサハヤは継体の忠臣だと考えるため、稲荷山古墳の墓主はカサハヤと推定している。礫槨から出土した馬具セットの鈴杏葉の年代を、考古学者の白井克也はTK23〜47型式期とし、小川良祐はTK47型式期としている。④江田船山古墳の古段階の被葬者はTK47型式期(551-562)に、新段階の被葬者はMT15型式期(562-571)に、最新段階の被葬者はTK10型式期(572-588)に葬られている。新段階の被葬者が製作させた鉄刀の銘文には「典曹人」とあるが、「典曹人」は「文官」であり、継体時代(507-531)〜欽明時代(当年称元法で531-571)の官僚制度では稲荷山古墳鉄剣銘文の「杖刀人」の武官と対になっていたと見られる。以上の①〜④のことから、「辛亥年」はワカタケル(欽明)大王が即位した531年と、石渡信一郎は推定している。