半坪ビオトープの日記

永平寺、傘松閣


一日中雨の中、全線無料化になった「のと里山海道」を金沢まで戻り、昼食後に福井県永平寺まで足をのばした。永平寺総持寺と並ぶ日本曹洞宗大本山であり、境内は三方を山に囲まれて樹齢700年に及ぶ老杉が聳える深山幽谷にある。永平寺の大きな寺号標の奥に建つのは、宝物や資料が展示されている瑠璃聖宝閣であり、参道は右手にある。

龍門と呼ばれる正門の左右に立つ、石柱に刻まれた「杓庭一残水 汲流千億人」は、「しゃくていのいちざんすい ながれをくむせんおくのひと」と読む。永平寺開山の道元禅師は、毎朝仏様に供える水を門前を流れる谷川から柄杓で汲み取ると、いつも半分だけ谷川に戻した。一滴の水も粗末にせず、下流の人にも分ち与えなさい、という禅の教えだという。茶道のことはよく知らないが、茶道でも柄杓で釜から湯を汲み取ったとき、半分だけ注いで残りの半分を釜に戻すという。

約10万坪もある広い境内には、七堂伽藍を中心に大小70余棟の建物が並びほとんどが回廊で結ばれている。もちろん全てを見ることはできないが、主な建物は回廊を廻りながら見て回ることができるので、雨の日にはたいへん助かる。

参道の左手に入口の通用門があるが、その向かいの参道右側には永平寺川が流れ、そこに架かる偃月橋を渡る先に、神仏習合時代の名残であろうかいくつか小さな社が並んでいる。一番左が稲荷堂である。湧泉稲荷社とのことだが、それ以上の詳細は分からない。その右には地蔵堂、その右の小さな社は天照大神宮、一番右の社が金毘羅堂である。

左手石段の上に通用門があり、参拝者はここから入る。1間両長屋の長屋門である。永平寺50世玄透禅師による扁額には、「天童叢規勃興名巒(てんどうのそうき ぼっこうのめいらん)」とある。永平寺は中国天童山の清規が厳然と遵守されている修行辧道の山であるぞ、と入門者の求道を喚起させる句という。

最初に大きな吉祥閣で見学の説明を受け、すぐに傘松閣の二階の大広間に入る。平成7年に再建された建物だが、昭和5年の建築当時の天井画が残されている。花鳥彩色画230枚の天井画は、川合玉堂伊東深水など144名の画家によって描かれた。

大広間は156畳敷の広さがあり、正面の床の間には達磨の絵が掲げられていた。

正面に烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)を祀っている東司(とうす、御手洗)の前を通り僧堂へ上がる回廊を進むと、右手に中雀門が見える。上下では仏殿と山門、左右では僧堂と庫院の中間に位置する。入母屋造銅板葺きの腰屋根を持つ二重門で、下層に軒唐破風を付け彫刻装飾も多い。永平寺60世臥雲禅師代の嘉永5年(1852)道元禅師600回大遠忌に新築された。

少し上がると僧堂の右手に仏殿が見える。七堂伽藍の中心にあたる建物で明治35年(1902)の改築により、屋根は中国宋時代様式の二重屋根に、床は石畳となっている。

仏殿の左手にある僧堂は、間口14間、奥行10間の明治35年に改築された建物である。別名、雲堂とか選仏場とも呼ばれ、修行の根本となる堂であり、坐禅・打眠・2時の食事をする。堂内中央には文殊菩薩を祀り、回りに82の「単」と呼ばれる1畳の台が設けられ、82人が就寝でき、164人が坐禅修行できる。外堂には大きな木製の魚梆(ぎよほう、魚鼓)が吊られている。2時の粥飯に打ち鳴らされる。