半坪ビオトープの日記

日吉大社、東本宮


東本宮の正面入り口に建つ楼門は、信長焼き討ちの後、天正年間から文禄2年(1573~93)頃に建てられた。3間1戸、2層の楼門で、屋根は入母屋造桧皮葺。軒廻り、腰組の組物は、格式の高い三手先で、一階部分は高く、二階部分が低いためスラリとした均整のとれた建物である。

東本宮楼門を潜ると、日吉大社摂社の樹下宮本殿が西に、拝殿が向かいの東に並んで建っている。間には東本宮拝殿が見える。
樹下宮本殿は、信長の焼き討ち後、文禄4年(1595)に建てられたことが墨書銘から明らかである。三間社流造の中でも比較的大型で、床が高いことから、日吉大社の他の本殿と同様に床下に下殿が設けられている。本殿内の神座の真下に霊泉の井戸があり、以前は御神水を採っていた。格子や破風などに打った豪華な金具に飾られた本殿である。祭神として鴨玉依姫神を祀る。旧称は十禅師という。

樹下宮本殿の向かい側(東)に、大きな拝殿が建っている。つまり、東本宮の拝殿・本殿へ向かう参道の線と、樹下宮の拝殿・本殿が向かい合う線が交差するのは、極めて珍しい配置といえよう。樹下宮拝殿は、本殿とともに国の重文に指定されている。

樹下宮本殿と拝殿の間を北に進むと、東本宮拝殿が建っている。桁行3間、梁間3間の方3間、一重入母屋造桧皮葺妻入で、文禄5年(1596)に建てられ、国の重文に指定されている。四方の柱間は吹き放しで、屋根の妻飾には木連格子を入れ、廻縁には高欄が付き、天井は小組格天井となっている。

拝殿の奥には東本宮本殿が建っている。桁行5間、梁間3間の日吉造桧皮葺で、文禄4年(1595)に建てられ、国宝に指定されている。身舎の前面、両側面に一間の廂を巡らせ、正面には一間の向拝と浜床を付け、縁高欄を巡らせている。正面からは入母屋造に見えるが、背後に回ると廂がなく、屋根が切り落とされたように見える日吉造(ひえづくり)は、西本宮本殿とほぼ同様の造りだが、背面の3間の床が一段高くなっているのが異なる。旧称は二宮という。

東本宮本殿は、祭神として大山咋神を祀る。『古事記』に書かれたように、神代の昔から比叡山に鎮座する地主神である。神名の「クイ」とは、山の樹木や麓の田畑の五穀をグイグイと育てる神徳を指したもので、兄弟神には竈神・庭の神・玄関の神・土の神があり、両親が大年神(稲の神)と水の神であることから、五穀豊穣や家庭生活の守り神として広く信仰されている。樹下宮の祭神・鴨玉依姫神とは夫婦である。日吉大社大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社であり、後に西本宮に大己貴神大物主神)が勧請されたため、大己貴神を大比叡、大山咋神を小比叡とも呼ぶ。山王は二神の総称とされる。
日吉大社の本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂の磐座を挟んだ2社(牛尾神社・三宮神社)のうち牛尾神社の里宮として、崇神天皇7年に創祠されたものとも伝えられている。なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である。旧称は二宮という。

ここでも木製の狛犬が本殿に上がっている。日吉大社では右が獅子、左が狛犬なので、これは狛犬である。本来、獅子・狛犬は本殿の中の内陣にて神を守っていたのだが、時代を経ると本殿の上に置かれ、本殿も守護する意味合いが生まれた。さらに時代が下ると、境内全体の守護のため、本殿の前や境内入り口などに置かれ、雨ざらしになるため木製から石造りになったといわれる。

東本宮本殿の左、新物忌社と樹下若宮社に挟まれたところに「亀井霊水」がある。昔、伝教大師最澄が参拝の折、池中から霊亀が現れ、占いにより閼伽井としたとの伝承があるが、本宮が牛尾山(八王子山)の社の里宮であるとされることから、牛尾山からの湧き水・神水として崇められた井戸と考えられている。

亀井霊水の右に建つのは、末社の新物忌社で、東本宮本殿の後ろに見えるのは、摂社の大物忌社である。新物忌社は、大山咋神の母神である天知迦流水姫(あまちかるみずひめ)を祭神として祀っている。

大物忌社は、大山咋神の父神である大年神(素戔嗚の子)を祭神として祀っている。

東本宮本殿の右手(東)には、末社の二宮竈殿社が建っている。西本宮の竈殿社と同じく、奥津彦神・奥津姫神を祀っている。