半坪ビオトープの日記

気比神宮


若狭湾国定公園の東端、敦賀半島に囲まれた敦賀湾に面する敦賀市に、古来より北陸道総鎮守と仰がれる気比神宮が鎮座している。社殿はほとんど第二次世界大戦の空襲で焼失したが、唯一空襲を免れた大鳥居は、正保2年(1645)造営で高さ36尺(10.93m)を誇り、奈良の春日大社・広島の厳島神社の大鳥居とともに「日本三大鳥居」にも数えられる壮麗な朱塗り両部鳥居であり、国の重文に指定されている。旧神領佐渡国の鳥居ヶ原から奉納された榁の大木が使用されている。扁額「氣比神宮」は有栖川宮威仁親王の染筆になる。

西に面した大鳥居をくぐって参道を東に進むと、中鳥居前に立つ「旗揚松」に至る。社伝では、延元元年(1336)当神宮宮司氣比氏治が南朝後醍醐天皇を奉じ、この松に氣比大明神の神旗を掲げ挙兵したという。現在もその旧根が残るとともに2代目の松が生育している。

旗揚松のところで南向きの中鳥居が立っていて、塀と回廊で囲まれた境内の中に大きな社殿が見える。

気比神宮の社名は、『古事記』では気比大神/気比神、『日本書紀』では筒飯大神/筒飯神、『延喜式神名帳』では気比神社となっているが、気比大神宮、気比明神などの呼称もある。『記紀』では仲哀天皇神功皇后応神天皇との関連が深く、中世には越前国の一宮とされ、福井県から新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有していた。主要社殿は空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建である。本殿の手前に接続して内拝殿・外拝殿が建てられている。

祭神は本殿に主祭神として、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)という気比神宮特有の神が祀られ、気比大神または御食津大神(みけつのおおかみ)とも称される。さらに仲哀天皇神功皇后が合祀されている。社伝では、上古に主祭神伊奢沙別命は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある土公の地に降臨したという。そして『気比宮社記』によれば、仲哀天皇の時に神功皇后三韓征伐出兵にあたって気比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得た。そして仲哀天皇8年3月に神功皇后武内宿禰が安曇連に命じて気比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になるとしている。その後大宝2年(702)に文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇神功皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱(日本武命・応神天皇・玉姫命・武内宿禰)を祀り、「四社の宮」と総称される。

現在の摂末社14社のうち、本殿に向かって左手に本宮と関係が深い9社が祀られており、「九社の宮(くしゃのみや)」と総称されている。一番左は伊佐々別神社で、祭神は漁労を守る神、御食津大神荒魂神。応神天皇皇太子の時当宮に参拝した折、夢に大神が現れ御名を唱えることを約し、その威徳により翌朝筒飯の浦一面余る程の御食の魚(みけのお)を賜った。天皇嬉び神域を畏み、気比大神の荒魂を勧請崇祀されたという。右が擬領神社(おおみやつこじんじゃ)。社記に武功狭日命(たけいさひのみこと)と伝えられ、一説に大美屋都古神または玉佐々良彦命ともいう。旧事紀には「蓋し当国国造の祖なるべし」とある。

左から3つ目は天伊弉奈彦神社で、祭神は天伊弉奈彦大神。続日本後記に承和7年(840)、越前国従二位勲一等氣比大神御子無位天利劔神、天比女若御子神、天伊弉奈彦神、並従五位下を奉授せらるとある。次は天伊弉奈姫神社で、祭神は天比女若御子大神。社家伝記に、伊佐奈日女神社、伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものなりという。その次は天利(あめのと)劔神社で、祭神は天利劔大神。式内社仲哀天皇当宮に参拝、宝劔を奉納せられ霊験いと奇しという。次は鏡神社。神功皇后角鹿に行啓の際、種々の神宝を当宮に捧げ奉った。その中の宝鏡が霊異を現わされたので、別殿に國常立尊とともに崇め奉り、天鏡宮と称え奉ったという。次は林(はやしの)神社。林山媛神を祀る。延喜式所載の越中國礪波郡林神社は当社と同体である。延暦4年(785)の勅により僧最澄氣比の宮に詣で求法を祈り、同7年再び下向して林神社の霊鏡を請ひ、比叡山日吉神社に遷し奉った。即ち当社が江州比叡山氣比明神の本社である。次は金神社。素戔嗚尊を祀る。延暦23年(804)僧空海当宮に詣で、大般若経1千巻を転読求法にて渡唐を祈る。弘仁7年(816)に再び詣でて当神社の霊鏡を高野山に遷して鎮守の杜とした。即ち紀州高野山の氣比明神はこれである。一番右は劔神社で、祭神は姫大神尊。剛毅果断の大神として往古神明の神託があったので、莇生野村(旧敦賀郡)へ勧請し奉ったという。

九社の宮の右手奥に神明両宮がある。祭神は天照皇大神(内宮)と豊受大神(外宮)。外宮は慶長17年(1612)、内宮は元和元年(1615)に、伊勢の神宮よりそれぞれ勧請奉祀される。

神明社の右手に気比神宮の本殿を垣間見ることができる。現在の本殿は昭和25年の再建であるが、旧本殿は慶長19年(1614)に、結城秀康により再建されたものである。桁行3間、梁間4間の両流造という独特の形式の大規模な社殿で、屋根は檜皮葺、正面には1間の向拝が付設されていた。現在の本殿の周囲には四社の宮(東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮)が建てられているが、ここからわずかに見えるのは、左が平殿宮であり、右が西殿宮である。

社殿を後に中鳥居をくぐって出ると、旗揚松の先(南)に松尾芭蕉の像と句碑がある。元禄2年(1689)、芭蕉は『おくのほそ道』の道中で「中秋の名月」を詠むために敦賀気比神宮に参拝した。
「月清し遊行のもてる砂の上」芭蕉像の台座にこの句が刻まれている。
樹齢700年といわれるタモの木の手前の句碑には、「國々の八景更に氣比の月」「月清し遊行のもてる砂の上」「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」「月いつこ鐘八沈る海の底」「名月や北國日和定なき」と、敦賀の地を詠んだ「芭蕉翁月五句」が刻まれている。句碑は、高さ2.6m、横4.4m、奥行き1.3m、重量約30トンと巨大な自然石が使われている。

旗揚松の右手(東)には、ユーカリの大木がある。樹高は10mを超え、幹周りは3m強、敦賀市指定の天然記念物になっている。

表参道の大鳥居をくぐるとすぐ左手に石造鳥居があり、その奥(北)に猿田彦神社がある。祭神は猿田彦大神で、気比神を案内する神であるという。

境内の東側、東参道駐車場脇(北)に「土公」がある。祭神の霊跡、天筒山の遥拝所であり、気比大神の降臨地とされる。大宝2年(702)の社殿造営以前は土公を神籬(ひもろぎ)として祭祀が行われたとする。また社殿造営後も土公は古殿地として護られたとも、最澄空海は当地で7日7夜の祈祷を行ったとも伝える。

東参道口の南側には3社の境内社が並んでいる。一番左(北)が大神下前(おおみわしもさき)神社で、祭神として大己貴命(おおなむちのみこと)を祀り、稲荷神と金刀比羅神を合祀する。古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村に鎮座したとされる。本殿は流造檜皮葺。その右に兒宮(このみや)がある。祭神は伊弉冊(いざなみ)尊である。寛和2年(986)に遷宮があったといい、それ以前からの鎮座と伝える。

兒宮の右手(南)に角鹿(つぬが)神社がある。祭神として都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)を祀り、松尾大神を合祀する。都怒我阿羅斯等は『日本書紀』において垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子で、同書では筒飯浦に至ったと見える。神宮の伝承では、その後天皇は阿羅斯等に当地の統治を任じたといい、この角鹿神社はその政所跡に阿羅斯等を祀ったことに始まるとし、「敦賀」の地名は当地を「角鹿(つぬが)」と称したことに始まるとしている。社殿は流造銅版葺。嘉永4年(1851)の改築によるもので、神宮の境内社では唯一戦災を免れている。