半坪ビオトープの日記

苗村神社、西本殿


翌朝、湖南三山を巡る前に、竜王町にある苗村神社を訪ねた。創祀は不詳だが、付近に古墳群が多く、祖霊信仰に始まる神社とされる。延喜式神名帳に、地名の那牟羅と同音の長寸(なむら、長は最高位、寸は村の古字)神社として列座する式内社。近郷の33ヶ村にわたって氏子を有する総社である。

毎年4月に行われる大祭・苗村祭では、9つの宮座から神馬渡御があり、奉納神事の後、神馬10頭と神輿3基が行列し、旅所まで渡御する。慶長4年(1599)から33年毎に開催されている式年大祭は、いくつもの山車、甲冑武士の行列、太鼓踊り、鎌踊り等の奉納もあり、格別に古式ゆかしい大祭だが、昨年13回目を迎えたので、次回は2046年の開催予定という。
今では珍しい葭葺(よしぶき)、雄大な入母屋造の屋根を持つ楼門は、大永2年(1522)の建立で、国の重文に指定されている。楼門の手前には、小振りの太鼓橋がある。

正面柱間3間、奥行2間、正面中央間に出入り口のある3間1戸の楼門で、高さは13.52m、葭葺屋根、軒の三手先組物、柱間には扉や連子窓を入れる上層を、柱と針だけで支えており、その対比が特徴的である。全体は和様を基調とするが、三手先組物の尾垂木の形や頭貫の木鼻、組物に実肘木をもつなど部分的に禅宗様を混用している。

楼門をくぐると広い境内のほぼ真ん中に、立派な拝殿が建っている。

吹き抜けで小綺麗な造りなので、最近建てられたものと思われる。

拝殿の後ろに西本殿が建っている。祖霊信仰としての長寸神社は後に東本殿といわれた。安和2年(969)大和国金峰山より国狭槌尊(くにのさつちみこと)の神霊を遷座し、社殿を造営して鎮座したという。その社が西本殿と呼ばれた。社蔵される徳治3年(1308)の棟札によると、建保5年(1217)に修造され、徳治3年に再建されたことが明記されていて、本殿・棟札ともに国宝とされている。
構造は三間社流造で、前面は一段低い床張りとし、菱格子を入れて前室を作り、さらに一間の向拝を付ける。屋根は桧皮葺とし、総体的に鎌倉時代後期の特質を表している。左右対称の彫刻を入れた2個の蟇股は特に美しい。殿内の小さな厨子は簡素だが手法に優れ、本殿と同時代の作と考えられ、ともに国宝になっている。
本殿手前の幣殿の右手には、小さな恵比須社の屋根が見える。

社蔵の古文書によると、元この地は『日本書紀』垂仁紀3年新羅王子・天日槍(あめのひぼこ)の条にいう吾那邑(あなのむら)だったが、その後、那牟羅に改まり、さらに長寸(なむら)に替わった。ついで寛仁元年(1017)後一条天皇より苗村神社の称号を賜り、天文5年(1536)には後奈良天皇から「正一位」の神位を受け、「正一位苗村大明神」の勅額も下賜されたという。
西本殿の祭神である国狭槌尊は、国土を開発し、五穀豊穣と財宝の恵みを垂れるとされ、子守大明神としても祀られている。

西本殿の左手には、境内社の八幡社本殿が建っている。建立年代は不詳だが、様式から楼門などと同じく室町時代(1430年頃)の建立と考えられている。一間社流造桧皮葺で、珍しく側面に幣軸板扉の出入り口を設け、妻飾に彫刻のある肘木を用い、母屋の三面・向拝には美しい蟇股を飾り付けるなど、華やかな意匠を凝らしている。

西本殿の右手には、境内社の十禅師社本殿が建っている。山王二十一社のうち上七社の一社十禅師の分霊社で、天台宗護法神の一社であるから、台密勢力のもとに日吉大社から当社域に勧請された社である。一間社流造桧皮葺で、蟇股など装飾を施さない古式をとどめた社殿で、母屋の内部は一室とし、正面に幣軸板扉を設け、他の三面を板壁とする。建立は八幡社と同様、室町時代(1430年頃)の建立と考えられ、同様に国の重文に指定されている。

幣殿の左手、八幡社の手前には、小さな綾之社の屋根がかすかに見える。