半坪ビオトープの日記

日牟禮八幡宮、本殿


琵琶湖に面する近江八幡市は、陸上と湖上の交通の要所として、中世以降多くの城が築かれ、豊臣秀次が築いた城下町を基礎とし、近江商人の活躍する商業都市として発展した。市内には小高い山が平野に浮かぶように点在するが、八幡山(283.8m)の南麓には日牟禮八幡宮が建っている。八幡山の山頂部には山城跡や瑞龍寺があり、八幡宮の裏手からロープウェイで上ることができる。

日牟禮八幡宮の歴史は古く、伝承によれば、131年、成務天皇が高穴穂宮に即位のとき、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされる。しかし、この大嶋大神を祀ったのが、現在の大嶋神社奥津嶋神社なのか、境内社の大嶋神社なのかは定かではない。275年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸のとき、社の近辺に御在所が設けられ休憩した。その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたという。ここで八幡宮の名が出ることには違和感がある。なぜなら、後述するように、八幡山上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀ったのは、正暦2年(991)だからである。奥津嶋神社は、近江八幡市海上に浮かぶ琵琶湖最大の島・沖島に鎮座する式内社で、名神大社とされる。福岡宗像大社沖ノ島沖津宮に相当すると思われる。
楼門は、三間一戸、二層入母屋造銅板葺で、上層及び屋根が大きく組物も重厚で全体的に豪壮である。安政5年(1858)に再建されている。

屋根下四隅には、左甚五郎作といわれる猿の彫刻があり、この門をくぐるだけで「災難がサル」「厄がサル」といって縁起がいいといわれている。また蟇股には、亀仙人・蝦蟇仙人・鯉仙人・鶴仙人などの彫刻もあり、虹梁の下には鼻の長い象の彫刻も見られ、随所に配された精緻な彫刻はどれも興味深い。

691年、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで日牟禮社と改められたという。正暦2年(991)一条天皇の勅願により、八幡山上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀った。さらに寛弘2年(1005)遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付ける
拝殿は、文治3年(1188)源頼朝が近江の守護職・佐々木六角に命じて建立。元文・文化の改築を経て、明治24年昭和13年・昭和53年に屋根の葺替を行い、先年、銅板葺に改められた。

天正18年(1590)豊臣秀次八幡山城築城のため、上の八幡宮を下の社に合祀した。秀次自害により八幡城は廃城となったが、城下町は近江商人の町として発展し、八幡宮は守護神として崇敬を集めた。慶長5年(1600)徳川家康関ヶ原の戦い後、武運長久の祈願を込めて参拝し、御供領50万石の地を寄付した。昭和41年(1966)日牟禮八幡宮と改称した。
本殿は、三間社流造、千鳥破風向拝付。嘉歴・弘治・万治・享保・文化と修復造替を経て、明治24年昭和13年・昭和53年と屋根葺替が行われ、先年、桧皮葺が銅板葺に改められた。

祭神として、誉田別尊(ほんだわけのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、比賣神(ひめかみ)の三柱を祀る。誉田別尊応神天皇の神霊とされ、息長足姫尊神功皇后の神霊とされ、比賣神は田心姫神湍津姫神市杵島姫神と三姫神の神霊とされる。日牟禮八幡宮が所蔵する、木造の誉田別尊坐像、息長足姫尊坐像、比賣神坐像の3躯は国の重文に指定されている。ほかにも日牟禮八幡宮が所蔵する重文に、「安南渡海船額」があり、絵馬殿にレプリカが掲げられている。江戸時代に安南貿易で活躍した近江商人・西村太郎右衛門が奉納した額である。

本殿の右手には、八幡宮および太神宮と彫られた標柱があり、中には祈祷所がある。入り口には左義長まつりと八幡まつりの由来が表示され、祈祷所の裏手からは、本殿に渡り廊下が連なっている。