境内に入ると拝殿の手前に能舞台が建っている。明治32年(1899)の能舞台改築の際、日牟禮八幡宮の能楽「ひむれもうで」が完成し、この舞台で初演されたという。観世流の能楽で、久しく演じられていなかったが、平成5年以来、近江八幡薪能として演じられるようになった。
境内には本殿の左右に境内社(摂社・末社)8社が並び18柱の神が祀られている。本殿右手には大嶋・稲荷・八坂・えびすの社がある。本殿のすぐ右隣にある大嶋神社は、八幡宮遷座以前の地主神と伝えられる大嶋大神を祀っている。徳川時代までは大嶋大明神または両神と称したという。明治になって祭神が大国主神となっている。明治以降、それまでの祭神を記紀神話あるいは風土記などの著名な神に替え、本来の祭神を摂社・末社に貶めた事例は日本中いたるところにある。旧祭神・大嶋大神はまず主祭神の座を追われ、次に神名を消されるなど二度にわたって冷遇されたことになる。とはいえ、沖ノ島の奥津嶋神社、近江八幡市北津田町の大嶋奥津嶋神社、およびここの境内社の大嶋神社の間の関係は複雑で、もう少し整理しなければわかりにくい。
左の繁元稲荷神社の祭神は、宇加之御魂神であり、享保2年(1717)に稲荷山に勧請されたものを明治22年に当境内に遷座し、大正2年に幾つかの稲荷社を合祀したとある。右の八坂神社の祭神は、建速須佐雄命と少彦名神である。昔は牛頭天王社ともいわれたとあるとおり、明治の神仏分離令により、各地で牛頭天王が須佐男と同体とする古伝承により替えられたのと同じと思われる。
本殿の右手奥に鏡池がある。案内によると、「世に伝う長命寺松ヶ崎に相通ずると云う。嘘偽の心にて顔を水に写すと池に没すと云う」とある。
本殿の真後ろには鏡岩がある。これも案内には、「後ろの大岩は、鏡岩又は屏風岩と云い、神座を護る岩として天下に名高い」とある。
社殿の左手には境内社が4社祀られている。社殿のすぐ左隣には、岩戸神社がある。祭神は橦賢木之御魂命・天疎向津姫命であり、伊勢神宮に参詣できない時の代参の社という。この神名は珍しいが、天照大神の荒御魂の一つとされているようだ。
岩戸神社の左手には、左から常盤社、天満宮、宮比社が並んで祀られている。常磐社の祭神は天照大神、豊受大神、熱田大神、津嶋大神であり、天満宮の祭神は菅原道眞であり、宮比神社の祭神は天宇受賣命(あめのうずめ)である。『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する。「天の岩戸隠れ」のくだりに登場する芸能の女神である。
日牟禮八幡宮で大きな祭りといえば、八幡まつりと左義長まつりが知られる。どちらも大きな松明が奉火される。絵馬殿にあるこの松明は、八幡まつり宵宮に奉納される松明の一部である。八幡まつりは、275年、応神天皇が大嶋大神を参詣するため琵琶湖から上陸する際、松明を灯して八幡まで道案内したのが始まりという古くからの伝統行事で、大小50余本の松明が奉火されるが、大きいものでは太さ4m、高さ10数mにもなり、日本一といわれる大火祭りである。
左義長まつりは、豊臣秀次が八幡城を築いた際、安土から移住した城下町の町民たちが、八幡まつりの荘厳さに対抗して左義長を奉納したことに始まるという。約3mの松明を飾り付けた左義長を繰り出し、女装した若者が町内を御渡りし、夜になると左義長が奉火される。4月の八幡まつりにさきがけて3月に催される左義長まつりは、湖国に春の訪れを告げるという。
これで7月中旬に訪れた、滋賀県の湖東、比叡山、湖南の旅を終えた。京都に近いからか、歴史の古い神社や山寺が多く、味わい深い旅となった。見残したところも多いので、いずれまた訪れたいと思う。