半坪ビオトープの日記

鹿児島神宮


隼人塚の2kmほど北に、鹿児島神宮がある。石橋を渡ると両側に御門神社が構えている。左の御門神社は、祭神として櫛磐窓命を祀り、右の御門神社は、祭神として豊磐窓命を祀る。石段を上ったところに社殿がある。

右手に雨之社が鎮座している。祭神として豊玉彦命豊玉姫の父)を祀っている。そのすぐ後ろに、建久年間(1190~99)の植樹と伝えられる御神木の大楠が聳えている。樹齢は約800年とされる。

鹿児島神宮の創始は、社伝によると「神武天皇の時に天津日高彦穂穂出見尊いわゆる山幸彦の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされるが詳細は不明。当社の北西13kmの地点には、穂穂出見尊の御陵とされる高屋山陵がある。欽明天皇の代に八幡神垂迹したのもこの場所とされる。当社を正八幡とも呼ぶのは『八幡愚童訓』に「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は7歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して皇子を産んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船の着いた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隈の磯に着き、その太子を八幡と名付けたという。継体天皇の代のことであるという」との記載がある。八幡神は大隈国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語』にも記載されている。信頼できる史料の初出は、『延喜式神名帳』に「大隈国桑原郡鹿児嶋神社」とあるもので、大社に列している。平安時代末には大隈正八幡宮ともいわれ、大隈国の一宮であった。鎌倉時代には神域を南九州一帯に誇り、石清水八幡宮とも繋がっていた。建久8年(1197)の「大隈国建久図田帳」によると、大隈国内に島津荘の1465町余に次ぐ約1300町の荘園を領していた。戦国時代から江戸時代には島津氏の尊崇を受けた。
社殿の前には勅使殿が突き出ている。

勅使殿とは、天皇から幣帛を託された勅使をお迎えする社殿で、深紅色の柱が印象的である。扁額には「正八幡宮」とあり、鹿児島神宮は全国の正八幡宮の本宮であると称している。

勅使殿の後ろに拝殿、本殿と続く。入母屋造の本殿は、拝殿・勅使殿とともに宝暦6年(1756)に島津重年により再建されたもので、国内最大の木造建築であるという。主祭神として、天津日高彦穂穂出見尊(山幸彦)および豊玉比売(穂穂出見尊の后神)を祀り、相殿神として帯中比子尊(仲哀天皇)、息長帯比売命神功皇后)、品陀和気尊(応神天皇)、中比売尊(応神の皇后)、太伯(句呉の祖。国内では唯一当社でのみ祀られる)を祀る。帯中比子尊から中比売尊までは、八幡神を合祀した関係による。

本殿に連なる拝殿は、縦長の珍しい造りで、平成7年の塗装補修による240余枚の天井画が殊の外美しい。神宮は、「鹿児島神宮文書」、紺糸威鎧兜大袖付、色々威胴丸兜など、貴重な文化財を数多く伝えている。

社殿の右にある四所神社は、大雀命(仁徳天皇)、石姫命(欽明天皇妃)、荒田郎女命(応神天皇皇女)、根鳥命(応神天皇皇子)を祀っている。

四所神社の右手にある社は武内神社で、祭神として武内宿禰命を祀っている。その右の社は隼風(ハヤチ)神社で、祭神として日本武尊を祀っている。

境内の右手のはずれに末社の稲荷神社があり、祭神として宇加魂命、猿田彦命を祀っている。