半坪ビオトープの日記

石體神社、卑弥呼神社


鹿児島神宮の参道から用水路沿いの北西に、摂社の石體(しゃくたい)神社がある。鹿児島神宮の旧地と伝えられ、安産・子授けの神として信仰を集めている。

鹿児島神宮の祭神となった、天津日高彦穂穂出見尊および豊玉比売が都として高千穂宮を経営した正殿のあった所で、鹿児島神宮の起こりでもあり、和銅元年(708)に神宮が現在地に遷った跡に社殿を造ったのが石体神社であるという。記紀神話によれば、豊玉比売は神武天皇の父となる、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を産んだが、産気づいてから産屋の屋根を鵜の羽で葺き終わる前に産むほどお産が軽かったので安産の神とされているといわれる。

本殿の手前の石塔に小石がたくさん積まれているが、妊娠5ヶ月の戌の日に御神体の代わりにその小石を一つ頂き、産後に一つ加えて返す慣習がある。石體神社はいわた神社とも呼ばれるが、岩田帯はこの石体神社より出た言葉だという説もあるという。

普段はひっそりとしているが、戌の日にはとても賑やかになるそうだ。

御神体は本殿の中に納められている石で見ることはできないが、鹿児島神宮相殿神にも祀られている息長帯比売命神功皇后)の伝説に関わるという説もあるそうだ。神功皇后は夫の仲哀天皇が急死した後、子供(後の応神)を妊娠したまま三韓征伐を行ったが、その際、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やして出産を遅らせたとされる。神功皇后の話はあくまでも八幡神を合祀した関係によると思われる。だが、石を神体にする信仰はどうみても古い信仰形態なので、初代神武天皇の父となる鵜葺草葺不合命を産んだ豊玉比売の話は、夫の天津日高彦穂穂出見尊(山幸彦)、その父の瓊瓊杵命、その子の鵜葺草葺不合命の三代が、日向三代と呼ばれることと合わせて考えると、南九州が記紀神話の発信地であることを強く意識させる。『古事記』では火照命(ほでりのみこと)いわゆる海幸彦は、隼人の阿多君の祖神とされる。『古事記』では火遠理命(ほおりのみこと)という山幸彦は、海幸彦の弟とされるが、兄弟の諍いに勝ったのは神武天皇の祖父にあたる山幸彦だった。山幸・海幸の伝説が集中するのは宮崎県南部である。

石體神社の隣に、鹿児島神宮末社卑弥呼神社がある。 

魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の女王・卑弥呼が国分・隼人地区に居城を持っていたという考えに基づき、郷土史家有志が旧高千穂宮の敷地内に30年ほど前に造ったようだが、どうも根拠に乏しい。

もちろん祭神は卑弥呼としている。

敷地内に卑弥呼像も立てられていて、郷土愛がなせるわざだろうが、どうも胡散臭い気がする。神話の里・鹿児島霧島から宮崎高千穂に近づくにつれ、こうしたものが増えてくるのだろう。