半坪ビオトープの日記

隼人塚


鹿児島湾(錦江湾)の最奧部から霧島山麓にかけて広がる霧島市には、約9500年前の縄文時代早期前葉の竪穴住居群からなる上野原遺跡をはじめ、多くの遺跡や史跡が存在する。中でも異彩を放つのは、隼人町内山田にある隼人塚であろう。『古事記』では火照命いわゆる海幸彦は、隼人の阿多君の祖神とされる。隼人塚とは、『古事記』『日本書紀』『風土記』などに記載されている、古代南九州の住民の隼人の反乱に因んだ仏教遺跡として国の史跡に指定されている。高さ約3mの丘の上に多重石塔3基と四天王石像4体が残存していたが、損壊が激しいため平成10から11年度にかけて修復・復元され、石塔は5層とされた。

クマソと隼人は古代南九州に住んでいた部族で、クマソは『古事記』では「熊曽」、『日本書紀』では「熊襲」、『風土記』では「球磨贈於」と表記される。クマソは大和朝廷に従わず征服されたが、隼人は古くから大和朝廷に仕え畿内隼人と呼ばれていた。大隈半島には大住隼人が、薩摩半島には阿多隼人が住んでいた(明治時代まで薩摩半島は阿多半島と呼ばれていた)。これらの隼人とは別に朝廷に従わない隼人もおり、和銅6年(713)の大隈国設置から反乱を起こした。中でも養老4年(720)の隼人の乱は最大で、国守を殺したため朝廷から大伴旅人を将軍に征伐軍を送られ、戦いは1年を超える長期に及んだが隼人の軍は制圧された。景行天皇に討たれた熊襲と、大和朝廷軍に討たれた隼人の霊魂を供養するために隼人塚が建てられたと伝えられてきたが、以前から建立には幾つかの説があった。

平成6年からの発掘調査により、「旧正国寺跡石仏」と同じ康治元年(1142)の銘を持つ石仏が出土したため、平安時代後期に鹿児島神宮戒壇所であった正国寺の前身寺院として作られたという説が有力となっている。

隼人塚公園に隼人を詠んだ与謝野晶子の歌碑がある。
「隼人塚 夕立はやく御空より 馳せくだる日に 見るべきものぞ」

公園には霧島市立隼人塚史跡館が建っている。霧島市はその他にも国分郷土館・横川郷土館、霧島歴史民俗資料館、隼人歴史民俗資料館など、郷土の歴史や民俗資料の展示に力を入れている。

館内の展示室には、石像の修復状況や隼人塚の発掘状況を紹介する写真パネル、文献資料などが多数展示されている。これは鹿児島神宮境内にある歴史民俗資料館の庭から発見された四天王石像で、隼人塚の四天王像によく似ている。胴部で二つに分断されていて、彫りや作りはやや甘いが、平安末期から鎌倉時代のものと考えられている。

隼人の乱と宇佐八幡宮の関係も説明されている。全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である宇佐八幡宮は、大分県北部の宇佐に鎮座し、八幡大神つまり誉田別尊応神天皇)を祭神として祀っている。養老4年の隼人の乱の際、宇佐の人々も八幡神を神輿に乗せて鎮定に赴き、抵抗する隼人を平定して100人もの隼人の首を持ち帰り、宇佐神宮の近くに葬り首塚を建てた。お告げにより、天平16年(744)に隼人の霊を慰める放生会(ほうじょうえ)を催し、今に伝わる放生会が始まったといわれる。宇佐神宮の勢力が鹿児島神宮にも及ぶと、その放生会鹿児島神宮でも行われるようになり、神輿が浜に下る途中、立ち寄って供養の儀式を行ったのが隼人塚だったと考えられている。

展示室中央には、旧正国寺石仏が安置されている。中央の如来坐像と右の観音立像に「康治元年(1142)九月六日供養」の銘文が刻まれている。隼人塚石塔によく似た大隈国分寺石塔は6層だが、同じ康治元年の銘があり、銘文の文字の書体も共通していて同じ工人が関与したと考えられている。

隼人塚石塔の構造は、木造塔を模倣するが一部簡略化され、笠部の軒裏の垂木は朱色に彩色されている。初重軸部は四面に仏像が彫られ、周囲には扉や柱の表現もある。これは奥州平泉の藤原氏が遺した経文の見返し絵などと共通する要素と見られ、堂内に仏像が安置されていることを表現しているという。