半坪ビオトープの日記

仙巌園、鶴嶺神社


仙巌園の中央、やや高台に中国風の東屋・望嶽楼が建っている。江戸時代初期に琉球国王から薩摩藩に贈られたと伝わる。床には秦の阿房宮の床瓦を模した磚(せん)と呼ばれる273枚のタイルが敷かれ、内部の壁には王羲之の書を模したといわれる額が掲げられる。望嶽楼は歴代藩主が琉球の使者などと面会する場所で、勝海舟やロシアのニコライ皇太子(のちのニコライ2世)なども訪れた。

望嶽楼と御殿の間にある大池では、5月中下旬に花しょうぶが見ごろとなる。

仙巌園の中心的な建物である御殿は、島津家歴代藩主の別邸として建てられた書院造りの建物だが、明治になって鶴丸城が政府の所有となったため、明治21年(1888)には29代忠義は本邸として利用した。現存する建物は明治17年改築時の約二分の一で、25部屋余りとなっている。

御殿の前の庭にはいろいろな灯籠が置かれている。これは鶴が羽を伸ばしたような姿から鶴灯籠と呼ばれる。日本初のガス灯は明治5年(1872)に横浜の馬車道に設置されたものといわれるが、28代斉彬は安政4年(1857)にこの灯籠にガス灯の火を灯した。

御殿敷地の入り口近くにあるのは、獅子乗大石灯籠である。29代忠義が明治17年に御庭方小田喜三次に造らせた園内最大の灯籠で、火袋だけに加工石を使い、笠石と台石は自然石を使った山灯籠である。大きく口を開けた飛び獅子は、江戸時代の別邸・花倉御仮屋にあったもので、桜島を向いている。

磯御殿の入り口に位置する朱色の門は、錫門という。仙巌園の中門として使われ、錫で葺いた瓦が映える。かつては当主と嫡男のみしか通れなかったそうだ。錫瓦葺きの建造物としては日本唯一とされ、嘉永元年(1848)庭地拡張までは仙巌園の正門として使用された。

仙巌園の出入り口には、島津義弘所用鎧の複製が展示されていた。島津義弘は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将で、島津義久の弟。武勇の誉れ高く、「鬼島津」の異名で知られ、戦国時代屈指の猛将として当時から有名だった。秀吉の豊臣政権に協力的で、朝鮮の役では朝鮮・明軍から恐れられたという。関ヶ原の戦いでは、参陣したが戦意を失い、西軍敗走の中で敵陣突破を決行し、「島津の退き口」と呼ばれる退却戦で全国に名を轟かせた。80数名で薩摩に戻った義弘に対し家康は出頭命令を出したが、島津家は拒否し続けた。家康は3万の島津討伐軍を向かわせるが討伐できず、長い睨みあい後に態度を軟化させて島津本領安堵を決定し、義久も義弘も咎め無しとした。晩年は大隈の加治木に隠居し、若者たちの教育に力を注いだという。

仙巌園の西南の隣に尚古集成館本館が建っている。慶応元年(1865)竣工のアーチを採用した石造洋風建築で、現存する日本最古の機械工場として国の重文に指定されている。幕末、藩主斉彬はこの地に東洋最大の工場群「集成館」を築き、製鉄、大砲、造船、紡績、薩摩切子などのガラス、薩摩焼の研究・製造を行った。

集成館と仙巌園の間に鶴嶺神社が建っている。島津氏の先祖を祀るために明治2年に創祀された神社で、江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀る神社の一つである。幕末の頃から廃仏毀釈運動の煽りを受けて薩摩藩領内の寺院を廃止する機運があったが、明治2年、島津忠義正室・暐(てる)姫が死去した際、祭儀を神式で行うことが決まったことをきっかけに薩摩藩領内の寺院排斥が一気に進行し、島津家歴代当主の菩提を弔っていた福昌寺も廃絶の憂き目にあった。その代わりに忠義が同年、坂本村山下鶴嶺(照国町)に祖先を祀る神社を創建し竜尾神社と号した。その後大正6年に30代当主忠重が現在地を寄進し、社殿を新築して鶴嶺神社と改称した。本殿は流造、拝殿は入母屋造、鳥居は神明鳥居である。祭神として、島津氏初代忠久以降の歴代当主とその家族、および分家筋の玉里家歴代当主とその家族を祀る。就中、16代当主義久の3女・亀寿を祀る。西南戦争の際、島津家は中立を保っていたにもかかわらず、鶴嶺神社は官軍の強奪被害に遭い、多数の貴重な文化財を失った。それらの宝物の消息は現在に至るまで不明で、鹿児島県が現在に至るまで文化財過疎県である一因となっている。