半坪ビオトープの日記

鹿児島、西郷像、城山


鹿児島市内を一望する城山の麓に、大きな西郷隆盛像が立っている。鹿児島生まれの西郷隆盛は、江戸城無血開城明治新政府樹立など明治維新に多大の功績を残したが、征韓論に敗れ下野。その後、西南戦争で新政府軍と戦い敗北し、この城山の地で自刃した。没後50年記念として、鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の忠犬ハチ公の製作者・安藤照が8年かけて製作し、昭和12年銅像が完成した。日本初の陸軍大将の制服姿の銅像であり、土台込みで8mの高さがある。

城山の名は、中世に地元の豪族・上山氏が山城を築いていたことに由来する。城山の麓に慶長6年から9年(1604)にかけて島津忠恒により鹿児島城が築かれ、別名・鶴丸城と呼ばれている。忠恒の父・義弘は海岸に近いこの城の防御に問題ありと築城に反対したが、幕末の薩英戦争の際、義弘の懸念通りイギリス軍艦から奥御殿に砲弾を何発も打ち込まれた。鹿児島は災害が多く、シロアリ被害もあり幾度も焼失・倒壊したがその度に再建された。明治7年の焼失後は再建されることなく、遺構として石垣や堀、西郷隆盛の私学校跡地である出丸跡、大手門との間に架かる石橋が現存している。堀に囲まれた鶴丸城跡には、現在、黎明館が建っており、堀の石垣には西南戦争の際の弾痕が残されている。

堀の終わり、城山入口には薩摩義士碑がある。幕末の薩摩藩による倒幕運動の大きな伏線であった、宝暦治水事件で犠牲になった藩士を弔うために大正9年(1920)に建立された。宝暦3年(1753)徳川幕府薩摩藩木曽川揖斐川長良川の改修工事を命じた。難工事のため約1000人を動員し工費40万両を費やして完成したが、その間、幕吏や地域住民との対立、悪疫の流行などで藩士88人の犠牲を出した。責任を取って自刃した治水総奉行で薩摩藩家老・平田靭負の碑を頂上に、将棋の駒を並べたような碑である。

城山入口の少し北に西郷隆盛終焉の地がある。西南戦争最終末、明治10年(1877)9月24日未明、城山を包囲した政府軍は一斉に砲撃を開始し、薩摩軍は敵陣めがけて岩崎谷を駆け下り、最後の抵抗を示した。西郷は腰と太ももに銃弾を受け、この場所で別府晋介介錯によって最後を遂げた。西郷に従った幹部も自刃ないし戦死したという。

城山に向かう道の途中に西郷隆盛洞窟(南洲洞窟)がある。その数4万の政府軍の城山総攻撃の際、薩軍兵士はわずか300余り、死を決した西郷は夜明けを待って5日間過ごした洞窟を出た。この洞窟は、田原坂より敗走してきた薩軍の最後の司令所だった。

鹿児島市中央にある城山は、西南戦争最後の激戦地であり、国の史跡及び天然記念物に指定されている。城山展望台の標高は107mで、周囲は城山公園として整備されている。鹿児島湾及び桜島を望む絶好の展望台で、天気が良ければ霧島山系や開聞岳も見られるという。真正面の東に桜島が大きく迫っている。

やや右(南東)を眺めると、眼下には鹿児島市街地を一望でき、夜景が美しいことでも有名である。この先には大隅半島が見えるはずだが、やはり霞んでよく見えなかった。

桜島方面をアップで見ると、あまりにも近いので、よくある噴火の際には、火山灰の被害もさることながら、噴石も飛んできそうで危険を感じざるを得ない。桜島は鹿児島湾(錦江湾)にある東西約12km、南北約10km、周囲約55kmの火山であり、かつては島であったが大正3年(1914)の大噴火で大隅半島と陸続きになった。
有史以来頻繁に噴火を繰り返し、現在も活発な活動を続けている。この日の三日後にも噴火が起き、垂水のフェリー港では車のガラスが割れたそうだ。今年の噴火回数も9月には1200回を超えたという。

城山公園は、楠の大木やシダ・サンゴ樹など600種以上の温帯・亜熱帯性植物が自生する自然の宝庫で、市民の憩いの場ともなっている。