半坪ビオトープの日記

ザビエル教会、黎明館


ポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲を伝えた6年後の天文18年(1549)フランシスコ・ザビエルは、鹿児島に上陸し日本で初めてキリスト教を布教した。日本最初の仏和辞典を作成したラゲ神父が、明治41年(1908)にザビエルの功績を讃えるために石造の教会堂を建てたが、第二次大戦時の空襲により石壁だけが焼け残った。昭和24年(1949)にザビエル渡来400年を記念して、ローマ法王の寄付金をもとに教会(木造)が再建され、石壁は教会前に整備されたザビエル公園内に記念碑として建てられた。

ザビエルは1506年にナバラ王国(その後スペインとなる)に生まれたイエズス会の創立メンバーである。インドのゴアに派遣されたザビエルは、マラッカで出会った薩摩出身の元漁師・ヤジロウの案内で鹿児島・祇園之洲に上陸し、島津貴久に謁見し、許可を得て日本で初めてキリスト教を布教した。しかし鹿児島では仏教徒の激しい反対にあい、ザビエルは10ヶ月で平戸に移った。その後京に行ったが天皇や将軍への謁見もできず、山口で大内義隆に歓待されて布教を行った。さらに豊後の大友宗麟を訪ねた後、天文21年(1552)に日本を離れてゴアに戻り、同年に中国へ向かう途中で46歳にて病没した。

ザビエルの滞鹿記念碑の右手に、ザビエルと薩摩人の像がある。ヤジローもベルナルドもマラッカから鹿児島まで案内した薩摩人である。ザビエル来航450年を記念して、ザビエル公園に設置された。

公園の向かいに建つ鹿児島カテドラル・ザビエル教会(記念聖堂)は、平成11年(1999)に新しく建て直されたコンクリート打ちっ放しの現代建築で、斬新なデザインと優れた機能美が評価されている。外観は大航海時代の交易船をイメージして作られたという。高さ31mの鐘楼に吊るされた鐘は、ザビエルの鐘と呼ばれている。

照国神社の向かいに石造の考古資料館が建っている。明治16年(1883)に鹿児島県産の溶結凝灰岩を用いて県立興業館として建てられた、和洋折衷の2階建寄棟瓦葺の建物で、戦災で内部が焼失した後、県立博物館として再建され、現在は考古資料館となっている。

城山の麓の西郷隆盛像の向かいに中央公民館が建っている。昭和2年(1927)に市公会堂として建てられ、昭和48年(1973)より中央公民館となった。

西郷隆盛像の東、島津氏の居城であった鶴丸城本丸跡地に黎明館が建っている。昭和58年(1983)に開館した県の歴史資料センターで、歴史民俗や文化遺産が15万点以上収蔵されている。幕末維新黎明期の資料が約3千点展示されている。

黎明館の右手に聚珍宝庫碑という石碑が建っている。

その聚珍宝庫碑の右手前の前庭に天璋院銅像がある。第13代将軍徳川家定正室篤姫は、薩摩藩今和泉島津家の生まれで、島津斉彬の養女となった後、鶴丸城本丸で数ヶ月過ごした。平成22年(2010)、天璋院の功績を顕彰して建立された。

黎明館は鶴丸城本丸跡地に建てられたため、石垣や濠、御楼門に至る大手橋(石橋)が残り、御楼門跡、御角櫓跡、麒麟の間跡などの遺跡もある。黎明館の裏手には屋外展示場が設けられ、御池もある。御池は城内にあった庭の池の一部を当時の石を使い大悲水や九皐(きゅうこう)橋などを復元したものである。

この建物は姶良郡横川町の海老ヶ迫家住宅を移築したもので、天保年間(1830~44)の建築という。二つの棟が樋の間(てのま)で連結され、「樋の間二つ家」と呼ばれる。

民家の前には鹿児島県各地の田の神像が集められている。この田の神像は、姶良町平松(現姶良市)の田の神像である。