半坪ビオトープの日記

都城島津邸


霧島神宮から南東に進むと、宮崎県の都城に至る。都城市平安時代、国内最大級の荘園、島津荘の中心地であった。源頼朝から三州(日向・薩摩・大隈)守護職に任命された惟宗(これむね)忠久は、建久7年(1196)島津荘地頭職を兼ねて荘政所に赴任し、島津忠久と名乗り、島津氏が発祥した。その後、南北朝時代に島津氏の分家として都城島津家が誕生し、以来500年、約4万石という大名並みの国力を保ち、版籍奉還までこの地を治めた。明治12年(1879)、都城島津家は住み慣れた都城の早鈴大明神跡地に新たな屋敷、都城島津邸を構えた。冠木門が駐車場からの入口となっている。

都城島津邸の敷地内に入ると古い石造りの風呂が二つ置いてある。側面の丸い穴は、薪を入れて燃やすためのものである。

道の右手には島津農芸館、剣道場、石蔵が並んでいるが、正面には都城島津伝承館が建っている。平成16年に28代島津久厚は、代々継承してきた約1万点の都城島津家資料を都城市に寄贈した。伝承館はその資料を中心に、都城島津家と島津本家の資料を収蔵・展示している。館内では江戸時代の薩摩筒という鉄砲や、室町時代琉球国王宛朝鮮国王国書、江戸時代後期の緋羅紗地丸に十字紋陣羽織、室町時代〜江戸時代初期の鉄錆地南蛮胴具足などを見ることができる。伝承館の右手には、都城島津家の家紋入り軒瓦を使用している御門がある。

道の左手には本宅の裏側が見える。庭は建物の向こうにある。島津広場と呼ばれる芝生の広場には、大きな楠が植えられている。26代島津久寛が明治2年の版籍奉還で領地を明治政府に返して鹿児島に移った後、都城には明治政府の地頭として三島通庸が来た。明治10年西南戦争の前後、2度東京に遊学した島津久寛は、明治12年に墓参で都城に帰った時にここで生活することを決め、島津邸を造ったのである。

伝承館の先には、白壁の外蔵が見える。明治5年(1872)築の古土蔵を明治15年に購入し、邸内に移築したもので、屏風や衝立、甲冑、古文書などが収蔵されていた。

左前方には都城島津邸の本宅玄関が見えてきた。玄関周りに配された植栽もきれいに手入れが行き届いている。

本宅は、明治12年建設の旧宅を昭和10年の陸軍大演習に合わせて改築した後、昭和28年、29年、47年にも改築を加えている。翌48年には全国植樹祭の折に昭和天皇も宿泊している。本宅は、御門、石蔵、外蔵、剣道場とともに国登録有形文化財になっている。

玄関から本宅内に入るとすぐ右手には洋間の応接室があり、正面には床の間を備えた和室がある。床の間には都城大弓が飾られている。都城大弓の素地は、都城の自然が育んだ真竹と櫨(はぜ)。これを幾層にも貼り込んで作る。竹弓の切り出しから籐巻きまですべて一人の弓師の手仕事で仕上げられる、経済産業大臣指定の宮崎県の伝統的工芸品である。

本宅中央にあたる床の間のあるこの和室は、天皇が休息した部屋である。

南に面して石灯籠もある和風庭園がある。昭和10年に鹿児島の庭師により造られ、昭和28年の増築の時にも改造されたという。鯉やスッポンが生息する池の水源は湧き水だが、涸れたことはないそうだ。

昭和29年に増築された2階に上がると本宅の東側にある社が見下ろせる。都城島津家の先祖が祀られていて、昭和10年にここに移築されたという。

ここは1階の北東奥にある内蔵。外蔵とともに都城島津家伝来の資料が保管されてきた場所である。