半坪ビオトープの日記

小豆島、ヤマロク醤油、中山千枚田


そろそろ年の瀬が近くなってきたが、5月の連休に小豆島と淡路島を巡ったので、その報告を済ませておきたい。新岡山港からフェリーで小豆島の土庄港に着き、レンタカーを借りてオリーブ公園に近い平井製麺所に直行した。土鍋に入った熱々の釜揚げそうめんは噂に違わずコシがあって美味しかった。昼食後、すぐ裏手にあるオリーブ公園に向かう。中央のオリーブ記念館前から見晴らすと、眼下のイベント広場の向こうには「二十四の瞳」の舞台となった岬の分教場がある田浦半島が見える。イベント広場の石のステージには古代ギリシアの「オストラキシモス」に使用された投票片をモチーフにした丸いモニュメントが置かれている。中央の心棒があって「無罪」を示すモニュメントは、平和の「小豆島」を象徴している。

オリーブ記念館には、ルーブル美術館から届いたオリーブの女神・アテナ像(レプリカ)が展示されているほか、日本のオリーブ栽培発祥の地である小豆島での様子や、オリーブ研究者や栽培者達の先人の紹介、栽培定着への試行錯誤の歴史など、オリーブと小豆島の歩みの資料が展示されている。オリーブの苗木は江戸末期や明治12年に日本に植えられた記録があっても失敗に終わった。明治41年(1908)農商務省が、三重・鹿児島・香川の3県を選んで試験栽培したが、根付いたのは小豆島だけで、3年後に507本から7kgの収穫が得られた。その後、瀬戸内海沿岸に栽培が広まったという。

記念館裏手やふれあい広場周辺には「世界のオリーブ遊歩道」が続き、19品種のオリーブの木が植えられている。

オリーブ公園から草壁港を通り、向かいの田浦半島を進むと岬の分教場がある。苗羽(のうま)小学校田浦分校として昭和46年まで約70年間使われ、当時のままの机やオルガン、子供達の作品などが保存されている。昭和29年(1954)に壺井栄の名作「二十四の瞳」の映画(高峰秀子主演)のロケ地となった木造校舎である。

分教場の前をさらに進むと、二十四の瞳映画村がある。ここには1987年の映画(田中裕子主演)のロケに使われた分教場などのオープンセットや、壺井栄文学館、主に「二十四の瞳」を上映するギャラリー松竹座映画館などがある。

時間の都合で映画村の中には入らず、草壁集落の東奥にあるヤマロク醤油を訪れた。創業は江戸末期らしいが、確かな記録はないという。当初は醤油を搾る前のもろみを卸販売していて、醤油屋となったのは戦後の昭和24年である。ヤマロクのもろみ樽は、三十二石(約6000リットル)の大杉樽を使っている。直径約2.3m、高さ約2mの大杉樽が40樽。3分の2から半分の大きさの樽が28樽ある。

ヤマロク醤油のもろみ蔵は100年以上前に建てられた蔵で、国の登録有形文化財に指定されている。木造平家で床は土間、壁は土壁だが、樽以上に梁や土壁、土間の中に100種類もの酵母菌や乳酸菌が暮らしていて、夏になると生きている菌が発酵する音が聞こえるという。ここでは予約なしでももろみ蔵見学ができるので、醤油づくりの様子をじっくり体験するとよい思い出になる。

当主山本家のルーツは赤穂藩で、塩浜師と呼ばれる塩づくりの技術者と伝えられている。元々小豆島は天領で、赤穂に続き小豆島も塩作りで栄えたが、瀬戸内海沿岸各地にも製塩業が広まり、幕末になると干ばつにも見舞われて衰退したため、醤油づくりへと移行していったという。

小豆島を代表する景勝地、寒霞渓は明日の楽しみにして、中山の千枚田を眺めに山里の斜面を上っていく。県内では唯一、日本の棚田百選にも選定されている見事な千枚田だ。

日本の名水百選の「湯船の名水」を水源に、標高120mから250mに広がる約8.8haの斜面に、大小様々な733枚の細長い田が段々に重なっている。南北朝時代から江戸時代中期にかけて造られたものといわれるが、コツコツと石積みを施していった努力に頭が下がる。

中山千枚田を下った山里に春日神社があり、その境内に農村歌舞伎舞台がある。この鳥居の先の突き当たりに春日神社の社殿があり、参道右手に舞台がある。

春日神社の小さな社殿に向き合って舞台がある。社殿の前のゆるい階段状の桟敷が、毎年10月上旬に農村歌舞伎が奉納されるときには、島内外からの大勢の観客でいっぱいになる。社殿の左手の屋根付きの桟敷は、村のお偉方や接待客用のものであろう。

国の重要有形民俗文化財に指定されている中山の農村歌舞伎舞台は、間口12.24m、奥行10.15mの茅葺寄棟造りで、下屋は本瓦葺きとした蓋造りである。現存の舞台は、琴平の金丸座を参考に改築されたといわれ、舞台裏の壁面に残る落書きから、文政年間(1818〜1829)に改築されたと考えられている。回り舞台は、昔、牛に引かせて回したとも伝えられている。他に太夫座、ブドウ棚、二重台、スッポン(奈落から役者をせり上げる装置)、セリを備えている。芝居衣装や道具類もよく整っているという。歌舞伎台本類は350冊余り、寛政元年(1789)の太鼓や文政元年(1818)の台本も残されている。

中山農村歌舞伎の起源は今から約300年前の江戸時代中期、伊勢参りに出かけた島の人々が上方から伝えたとされる。荒天で船が出ず、大坂で船待ちしていた島人達は、上方歌舞伎の華やかな世界に触れ、歌舞伎の名場面を描いた絵馬や衣装を島に持ち帰り、神社に奉納した。歌舞伎の人気は島中に広がり、上方から旅回りの一座や振付師を招くなどして、次第に島人自ら演じるようになった。最盛期の明治・大正期には島全体で歌舞伎舞台が30以上、役者が約600人いたといわれる。今でもこの中山と肥土山農村歌舞伎の二つが伝承されている。演目は多岐にわたるが、小豆島ゆかりの佐々木信胤とお妻の局の悲恋を脚本にしたオリジナルの「小豆島」もあるそうだ。