半坪ビオトープの日記

伊奘諾神宮、明石のタコ


淡路市多賀に伊弉諾(いざなぎ)神宮がある。式内社名神大社淡路国の一宮であり、日之少宮、津名明神、多賀明神、淡路島神、一宮皇大神とも別称され、通称「一宮(いっく)さん」とも「伊奘諾さん」とも呼ばれる。花崗岩製の一の鳥居は、平成7年(1995)1月の阪神・淡路大震災で倒壊したが、同年中に再建された。

横に細長い放生の神池(ほうじょうのしんち)にかかる石造の神橋を渡ると、正門である表神門が大きく構えている。この表神門は、明治16年(1883)に随神門を現在の様式に改めたものである。

放生の神池は、かつて神陵の周囲に巡らされていた濠の名残の池といわれ、古くはここで放生神事が行われていたそうだ。命乞いに鯉、快癒の報賽に亀を放って祈願が行われる。

境内地は約15,000坪。菊花紋と注連縄の吊るされたがっしりとした表神門の向こうには拝殿が構えている。

伊弉諾神宮の建物は明治9年から21年にかけて官費で造営されたものがほとんどだが、神輿庫及び東西の御門は旧幕時代の阿波藩主の寄進による。拝殿は、銅板葺入母屋造で、舞殿を兼ねている。

拝殿の右手には東門があり、その脇には伊勢の皇大神宮遥拝所がある。実際にほぼ真東に伊勢神宮がある。

さらに右手奥に淡路祖霊社があり、その脇の夫婦大楠と呼ばれる神木は、胸高周囲8.5m、樹齢が800年から900年と推定され、県指定の天然記念物である。

菊花紋の付いた神馬像。

中門の奥に幣殿があり、その奥の本殿と屋根で連結されている。

幣殿の奥にある本殿は檜皮葺三間社流造で、明治15年(1882)に禁足地であった御陵の上に建てられた。

日本書紀』・『古事記』には、国生み・神生みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島、多賀の地の幽宮(かくりのみや)に鎮まったとあり、当社の起源とされる。文献では、『日本書紀履中天皇5年条9月条において島に居る「伊奘諾神」の記載や、允恭天皇14年9月条に「島神」の記載があり、これらは当社に比定されている。

帰りは明石大橋を渡り、明石駅前の「あかし亭」で明石の魚料理を食す。まずは珍しい伝助穴子の蒸し焼き。明石では300g以上の大きな穴子を「伝助」と読んで区別している。

刺身3種。やはりタコの刺身がうまい。明石ダコはカニを餌として食べ、足が太く短く弾力があって美味しい。

タコ串焼きもコリコリして歯ごたえを楽しめる。

最後に明石名物の明石焼き(たこ焼き)揚げ出し風を食べて満足し、小豆島から淡路島への旅を終えた。