半坪ビオトープの日記

霧島神宮


前日は雨で霧島山麓・高千穂河原・えびの高原散策が残念ながらできなかった。翌朝も山間に湯煙をあげる霧島温泉だが、なんとか霧も晴れていきそうだ。

霧島神宮に着く頃には随分晴れ上がってきた。社務所の前にはオガタマノキ(招霊木)が植えられている。日本に自生するモクレン科では唯一の常緑樹であり、巫女が持つ神楽鈴の原型となる実をつける木である。天岩戸隠れ神話において、天岩戸の前で舞った天鈿女命が手にしていたとする説がある。榊の自生しない西日本では、神前に供える玉串として古くから代用されてきた。

社務所前の石段を上がると大きな三の鳥居が建っている。笠木の反りが強く、笠木自体も屋根型で装飾性の強い典型的な明神鳥居である。鳥居の彼方に社殿が見える。

大きな社殿の正面には勅使殿が構え、勅使殿の両脇には東長庁、西長庁が横に伸びている。勅使殿の手前、両脇には門守神社が祀られ、社殿はいずれも朱塗りの華麗なものである。
欽明天皇の時代(6世紀)、慶胤(けいいん)なる僧侶に命じて高千穂峰と火常峰の間に社殿が作られたのが始まりと伝わるが、実際には高千穂峰に対する山岳信仰が元と考えられている。火山の麓にあるため度々炎上し、天暦年間(947~57)には性空により瀬多尾越(現、高千穂河原・古宮址)に遷されるが、ここも度々噴火の巻き添えで炎上する。文明16年(1484)島津忠昌の命により兼慶が現在地に再建した。現在の社殿は第21代薩摩藩島津吉貴によって正徳5年(1715)に再建されたもので、国の重文に指定されている。明治初期の神仏分離令が発令されるまでは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一面観音、別当寺に華林寺を有し、霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしていた。

勅使殿の後ろには、拝殿、幣殿、本殿が縦に連なり、総銅板葺で重厚な雰囲気を醸し出している。本殿はどこからもよく見えないが、桁行五間、梁間四間、入母屋造で正面に一間の向拝をもつ大規模な建物で、組物や各所の彫刻には極彩色を施し、小壁や天井には絵を描き、柱等軸部は漆塗りとする。さらに向拝柱には龍の彫刻が施されている。幣殿も見えないが、桁行二間、梁間三間、両下造である。神社建築でこのように内部まで装飾を凝らしたものは珍しく、「西の日光」との別名をもつ。

大きな唐破風をもつ勅使殿は、極彩色の美しい彫刻が随所に施され、豪華な造りになっている。

まだ朝早いので、勅使殿の右脇から勤めに向かう人が次々と拝殿に進んでいく。本殿屋根には5組の千木が付けられ、拝殿屋根の両端の他に千鳥破風にも千木が付けられているのが珍しい。

勅使殿の脇から中を覗くと、登り廊下の先の一段高いところに拝殿が建っている。拝殿は、桁行七間、梁間三間、入母屋造で正面に千鳥破風、一間の向拝を付け、極彩色、漆塗りが施されている。主祭神として、天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひたかひこほのににぎのみこと)を祀る。いわゆる天照大神の命を受けて高天原から葦原中国に降りた天孫降臨ニニギノミコトである。日本書紀では日向の高千穂峰に降りたとする。相殿神として、木花咲耶姫尊(后神)、彦火火出見尊(子神)、豊玉姫尊(子神の后)、鵜葺草葺不合尊(孫神)、玉依姫尊(孫神の后)、神倭磐余彦尊(曽孫神=神武天皇)を祀っている。

社殿の右手前に御神木である杉の巨木が聳えている。樹高約35m、目通り幹囲約7m、推定樹齢800年、樹種は霧島杉と呼ばれ、南九州の杉の祖先ともいわれる。

御神木のさらに右手に進むと、新しい神楽殿が建っている。霧島神宮御鎮座1460年を記念して平成17年に建立された。

帰りがけに、行きに見たオガタマノキの左脇に神聖降臨之詩碑が建っているのを見つけた。徳富蘇峰が昭和27年(1952)に詩詠・揮毫した五言絶句が刻まれている。「神聖降臨地 乾坤定位時 煌々至霊気 萬世護皇基」

霧島神宮のすぐ東に霧島神宮の斎田がある。毎年6月10日に斎田御田植祭が行われ、五穀豊穣を祈願した神事と「田の神舞」が奉納される。