半坪ビオトープの日記

高照神社


平川市のすぐ西隣は3年前の青森旅行で観光した弘前市なので、市街地を素通りして西の岩木山神社に向かった。
岩木山の麓、百沢街道に沿った岩木山神社の少し手前を右(北)に曲がると、高照神社がある。
三の鳥居の前の広い駐車場から振り返って、石の二の鳥居と朱色の一の鳥居を眺める。

神橋の先には三の鳥居が建ち、その先には高塀付の随神門がある。

高照神社は、宝永7年(1710)に卒去した、弘前藩4代藩主の津軽信政の廟所に起源をもつ。5代藩主信寿が信政の遺言に則り、翌正徳元年に吉川従足を斎主とする神葬祭を斎行して廟所を営み、その翌年に本殿を造営して信政の神霊を遷祀したのが創祀で、享保15年(1730)に高照神社と称した。
随神門は、切妻造鉄板葺きの3間1戸の八脚門で、文化7年(1810)9代藩主津軽寧親により造営された。

随神門には、神域に邪悪なものが入るのを防ぐ随身像が左右に安置されている。

本殿から鳥居までの主要建造物が東西軸上に配され、これは吉川神道に基づく独特な社殿構成とされ、全国的にもほとんど類例がないとされる。社殿の造営時期は大きく正徳期・宝暦期・文化期に別れるが、近世における神社建築の展開の一端を示すものとして高く評価され、廟所も含め社殿8棟と墓2基が国の重文に指定されている。
拝殿は、桁行7間梁間3間の入母屋造、正面屋根に千鳥破風を飾り、中央3間に軒唐破風の向拝を張り出す。幣殿は梁間3間桁行2間の切妻造妻入で、拝殿背面に接続している。あわせて杮葺きで宝暦5年(1755)7代藩主信寧の造替にかかる。
拝殿前には四の鳥居が建っていたが、昨年1月に老朽化と大雪のために壊れ、まだ修復されていない。

向拝虹梁の花の彫刻、その上の大瓶束およびその周りの笈型などの意匠が珍しい。猪目懸魚と両側の降懸魚およびその周りの鰭の彫刻の意匠も興味深い。

主祭神津軽信政命であるが、ほかに武甕槌神天児屋根命、伊波比主神、比売神津軽為信命も祀っている。
享保13年(1728)から慶応4年(1868)の52枚を含む奉納絵馬54枚は、県の有形民俗文化財に指定されており、その他の刀剣類とともに多くが境内にある宝物館に収蔵、公開されている。

本殿手前の中門は、1間1戸の平唐門で、西軒廊を介して本殿に、東軒廊を介して幣殿に続く。東西両軒廊はともに桁行4間梁間1間の切妻造である。

本殿は、方3間の入母屋造で、正面屋根に千鳥破風を飾り、1段低く構えた1間の向拝は軒唐破風とする。中門・軒廊・本殿は、いずれも杮葺きで、5代藩主信寿による正徳2年(1712)の造営である。