半坪ビオトープの日記

厳島神社、御本社


海に面する厳島神社の先端、火焼前から振り返って高舞台の脇を戻り、祓殿から御本社に入る。祓殿は、お祓いをするところで、管絃祭の時に鳳輦(ほうれん、神輿)が置かれる場所であり、また雨天時の舞楽奉奏などに使われる。床板は、明治になり浅野藩の藩船厳島丸の楠の板が使用されている。

御本社は祓殿の次に拝殿、幣殿、本殿と続く。現在の本社本殿は、戦国時代の元亀2年(1571)毛利氏によって建てられたが、ほかは客神社と同じく鎌倉時代の仁治2年(1241)建築と伝えられ、それぞれ国宝に指定されている。拝殿は参拝者が祭神と向き合いお祓い・参拝する場所であり、幣殿は幣帛(神前に供える物の総称)を供える場所である。本殿の屋根は、切妻造の正面・背面を長く伸ばした両流造である。本殿の広さは、正面8間・背面9間・梁間4間で、出雲大社の2倍といわれ、日本一大きな本殿である。主祭神として、市杵島姫命・田心姫(たごりひめ)命・湍津姫(たぎつひめ)命の宗像三女神を祀り、ほかに30柱の神が相殿されている。本殿の内陣には6基の宝殿を安置する。3基には宗像三女神を祀り、残りの3基には相殿神を併祀する。

拝殿は、入母屋造、桁行10間、梁間3間で、組物は舟肘木を用いる。梁間3間のうち中央の1間と奥の1間は、天井を張らず桁・垂木等の構造材をそのまま見せる化粧屋根裏としている。拝殿内には、舞楽に使われる太鼓などの楽器類や儀式に使われる道具類が安置されている。

御本社の見学を終えて西廻廊に進むと、左手に大国社と天神社が見える。大国社は祭神として、田心姫と結婚している大国主命を祀っている。天神社は、毛利隆元が弘治2年(1556)に建立した摂社の一つで、菅原道真公を祀る。能舞台と同じく素木(丹が塗っていない)なのは、社殿群の中では新しい建物で、時代が下がるためである。古くは連歌堂と呼ばれ、明治頃まで連歌の会が催されていた。

西廻廊の右手には、能舞台と楽屋が建っている。国内でも唯一の海に浮かぶ能舞台は、通常は能舞台の床下に置かれる共鳴用の甕がなく、足拍子の響きをよくするため舞台の床が一枚の板のようになっている。厳島での演能は、永禄11年(1568)観世太夫の来演が始まりとされ、慶長10年(1605)には福島正則が常設の能舞台を寄進した。現在の能舞台と橋掛及び楽屋は、藩主が浅野氏に代わった延宝8年(1680)に再建された。妻飾りの二重虹梁大瓶束とその左右に付いている笈形が大きい。

西廻廊が右に曲がる角の左側には反橋があるが、工事中で覆われていて見えなかった。昔は勅使だけが渡っていたので勅使橋とも呼ばれる。西廻廊は右に曲がった後、また左に曲がって出口に向う。

出口の右手には、大願寺の伽藍が見える。本堂の右手前に見える建物は、新しく再建された護摩堂である。

大願寺の護摩堂は、明治時代に焼失した後、平成18年に140年ぶりに再建されたもので、一丈六尺(約4m)の総白檀製の本尊・不動明王半跏座像が安置されている。かなり大きくて迫力あるが、撮影禁止であった。建物の形式は、多宝塔様式二層宝形造りという。