半坪ビオトープの日記

飫肥城跡


都城の南東に進むと、日南市の飫肥(おび)に至る。日南の小京都と呼ばれる飫肥城下町は、重要伝統的建造物群保存地区に九州で初めて国の選定を受けた町並みである。大手門通りの突き当たり手前右側には、小村記念館がある。日露戦争後のポーツマス条約の締結や、日英通商航海条約締結(不平等条約の改正)などに尽力した明治時代の外交官・小村寿太郎の遺徳を顕彰して開館され、当時の政治・外交上の資料を多数展示している。

小村記念館の斜め向かいに豫章館がある。飫肥藩主伊東祐帰(すけより)が藩知事になり、明治2年に造られた伊東家の住まいで、名の由来は庭の大楠(予章木)によるという。借景を配した武学流の作庭といわれる回遊式・枯山水式庭園は、飫肥三庭園の一つに数えられ、薬医門を構えて主屋や御数寄屋・雑舎・蔵を配した屋敷は、飫肥城下で最も格式ある武家屋敷である。

飫肥城は、江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄した、幾つもの曲輪を並べた群郭式の平山城である。宇佐八幡の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城した飫肥院が始まりと伝えられる。戦国初期は島津氏の属城で、日向の伊東氏と攻防が続いたが、永禄11年(1568)に伊東義祐により攻略された。高原合戦(1576)後、再び島津領となったが、天正16年(1588)豊臣秀吉伊東裕兵を飫肥に封じ、約100年にわたる島津氏との日本最長攻防戦に終止符を打ち、以後280年余り伊東氏の居城となった。江戸時代、伊東家は豊臣系の外様大名の地位ながら家名を全うしたが、関ヶ原の戦いで東軍側に立った数少ない九州大名だったことが物を言ったとされる。
大手門は明治初期に取り壊されたが、昭和53年(1978)樹齢100年の飫肥杉4本を使用し復元された。木造渡櫓二階建て本瓦葺きの重厚な造りの櫓門である。

飫肥藩5万7千石の城跡は、往時から残る苔むした石垣、大手門前の広い石段、堀跡、武家屋敷等が昔を偲ばせてくれる。隅櫓跡には古い鐘楼が残っている。

中世の飫肥城は、幾つもの出城を持つ壮大な城であったという。いわゆる群郭式の平山城の形だったが、地形をうまく利用した堅固な城であったらしく、島津氏と伊東氏との100年にわたる戦いの際にも落城したことは一度もないといわれる。当時の戦いの跡を見つけることはできないが、何度か見舞われた地震により石垣や建物は崩壊することもあり、現在に残る城跡の形になったのは元禄6年(1693)の頃という。

飫肥城は東西約750m、南北約500mの城域に大小13の曲輪と犬馬場などからなる広大な城で、各曲輪は本丸、松尾ノ丸、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などと呼ばれていた。石垣に囲まれて一段高くなった旧本丸が、昔は藩主の御殿であったが、寛文2年(1662)、延宝8年(1680)、貞享元年(1686)の3度の大地震で地割れが発生し、移転することになった。

旧本丸跡には樹齢140年という飫肥杉が立ち並び、木漏れ日が一面に広がる苔の絨毯の世界は、しんしんとして心が癒される静かな悠久の空間となっている。

曲輪の一つ、松尾ノ丸は、樹齢100年以上の杉を使い、昭和54年に江戸時代の書院造りの御殿として復元された。涼み櫓の湯殿は、秀吉が聚楽第で使用したと伝えられる、杮葺総檜造りの蒸し風呂となっている。

飫肥の城下町を歩くとあちこちに、飫肥の名物「おび天」の店がある。この「郷土料理おび天蔵」は、飫肥藩の藩役所が置かれたところで、「長倉」として今でも残る唯一の建物である。店内ではおび天の実演販売や、飫肥名物の厚焼卵、おび天を含む日南名物カニ巻き汁なども味わえる。

時間があれば「食べ歩き・町歩き」MAPを買い求めて、飫肥城下町のあちこちをいろいろ寄り道するとよい。大手門通りを南下すると、小村寿太郎生誕地の碑がある。碑文は東郷平八郎の揮毫である。小村は下級藩士の子として生まれたが、14歳まで藩校振徳堂で学び、長崎留学後、大学南校(現、東大)に学び、アメリカのハーバード大に留学して法律を専攻した。帰国後、司法省から外務省に移り外交官として活躍した。

小村生誕地碑の斜め向かいに「ギャラリーこだま」がある。明治時代の薬問屋を改装した店で、多目的ギャラリーの母屋と作家ものの雑貨が並ぶギャラリー蔵からなり、母屋にはカフェもあり、食事もできる。

食事は「日南一本釣りカツオ炙り重」が人気だ。カツオは2種類のタレに漬けてあり、醤油とカツオ出汁の合わせと、もう一つはゴマだれである。最初は刺身のまま、次に炭火で軽く炙って食べ、最後は炙ったものをご飯に載せてお茶漬けと、3通りで食べるが、どれも美味しい。飫肥名物の厚焼き卵も一切れついて1300円とは嬉しい限りだ。

ギャラリーこだまの筋向かいに地味噌・地醤油の「安藤商店」がある。創業百余年の老舗で、素朴だが風味のある味が楽しめる。