本殿がある岩窟は、東西38m、南北29m、高さ8.5mの海食洞で、参拝するには崖に沿った石段を降りる必要があり、神社としては珍しい「下り宮」の形となっている。
中世以後、鵜戸大権現は伊東氏や島津氏などの在地領主の崇敬を受け、永禄3年(1560)に伊東義祐によって社殿が再興され、寛永8年(1631)には飫肥藩主伊東祐慶による造替、同18年(1641)にも同藩主伊東祐久による修復が行われ、その後も正徳元年(1711)に飫肥藩主伊東祐実による造替が、明和7年(1770)にも修復が行われた。
明治初期に神仏判然令によって別当寺院の仁王護国寺を廃して鵜戸神宮となる。明治22年(1889)に社殿を大改修、昭和43年(1968)に本殿を修復したが、平成9年(1997)に屋根の葺き替えと漆の塗り替えを施したのが現在の社殿である。拝殿・幣殿・本殿が一体となった権現造(八棟造)杮葺で、極彩色を施す。拝殿には千鳥破風と唐破風を飾る。
神武天皇の父・日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を主祭神とし、相殿に大日孁貴(おおひるめのむち、天照大御神)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと、神武天皇)を祀る。
仁王護国寺の下、江戸時代までは修験道式の修法が行われていたが、明治以降は神道式に改められた。
本殿の左に皇子神社が鎮座する。彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を祀る。もと吹毛井(ふけい)の船形山に鎮座し、明治初期に現在地に遷座したという。
九柱神社では、神直毘神・大直毘神・伊豆能売神・底筒男神・中筒男神・上筒男神・底津綿積神・中津綿積神・上津綿積神を祀っている。
本殿の裏手にお乳岩がある。乳房に似た二つの突起で、豊玉姫が綿津見国へ去る時、御子の育児のために左の乳房をくっつけたものと伝え、主祭神はそこから滴り落ちる「お乳水」で作った飴を母乳代わりにしたという。
鵜戸神宮は『記紀神話』に語られる海幸彦・山幸彦の伝説の舞台として知られる。邇邇芸命と木花之佐久耶毘売との子である海幸彦(火照命)と山幸彦(火遠理命、天津日高日子穂穂手見命)はそれぞれ漁と狩りを生業として暮らしていたが、ある時、山幸彦の申し出によって互いの道具を交換して仕事に出る。慣れぬ仕事で成果は上がらず、さらには山幸彦は兄の大事な釣り針を無くしてしまう。途方に暮れる山幸彦は、塩椎神の助言に従い綿津見神の宮へ行き、そこで綿津見神の娘である豊玉姫を妻とする。やがて山幸彦は釣り針を取り戻して陸に戻るが、山幸彦の子を身ごもっていた豊玉姫が出産のためにやってくる。鵜の羽を用いた産屋が鵜戸神宮の洞窟に用意されるのだが、完成が出産に間に合わなかったため、生まれた子は鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と名付けられた。「出産の際は産屋の中を覗かぬように」と豊玉姫は言ったのだが、心配する山幸彦は中を覗いて、ワニの姿に戻って出産する姫の姿を見てしまう。それを悲しんだ豊玉姫は海原の国へ戻ってしまった。その時姫は子のために乳房を置いていったという。豊玉姫は妹の玉依姫を乳母として地上に送る。やがて成長した鵜葺屋葺不合命は玉依姫を妻とする。二人の間に生まれた子の中に、のちの神武天皇がいる。
お乳岩の右手に御霊石がある。室町時代中頃より知られており、鵜戸山大権現仁王護国寺の信仰の名残とされる。願い事は成就し、霊験あらたかと伝わる。
お乳岩から湧き出るお乳水を飲むと、安産や身体健全などのご利益があると信仰されている。
本殿のある洞窟から出て海岸を眺めると、太平洋の荒波が打ち寄せて削り上げた奇岩怪礁の景勝が南北約1.5kmにわたり広がる。
鳥の姿のような二柱岩が典型的だが、古第三紀層の砂岩と泥岩との互層が海蝕を受け、泥岩が削られて奇岩を形成している。