半坪ビオトープの日記

鵜戸神宮、楼門


油津から北東に10kmほど日南海岸を進むと、鵜戸神宮のある鵜戸崎の海岸には、鵜戸千畳敷奇岩がある。宮崎県南部の海岸によくある鬼の洗濯板だが、ここの洗濯板は典型的な波状岩で、その広さから県指定天然記念物になっている。

駐車場脇の参道入口に、剣法発祥の聖地なる石碑が立っている。南北朝時代念阿弥慈恩が、室町時代に日向守愛洲移香が、それぞれ鵜戸の洞窟に籠もり剣術修行に励んだ。前者は念流という。後者は、満願日の早朝、目の前を横切る影を相手に新剣法を会得したため「陰流」といい、新陰流などの流派の祖となったとされる。

鵜戸神宮の「ウド」は、空(うつ)、洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し、祭神名の「鸕鷀(う)」が鵜を意味するに因んで、「鵜戸」の字を充てている。古くは鵜戸権現とも称したが、明治元年神仏判然令によって権現号を廃し、翌2年「鵜戸神社」と改称、同7年に神宮号が宣下されて現社名となった。

神門手前左手に奇妙な形の岩がヌッと突き出ているのが見える。本参道の八丁坂から本殿を守護しているように見えることから、神犬石(いぬいし)という。

朱塗りの大きな門は、神門である。神門の先に楼門が見える。どちらも寺の山門や楼門に見えるが、明治以前は権現寺院であった名残であろう。宮崎では大正の初め頃まで、結婚すると鵜戸神宮へお参りする風習があった。美しく飾った馬に花嫁を乗せ、花婿が手綱を引いていくと、馬についた鈴が「シャンシャン」と鳴ったことから、「シャンシャン馬」と呼ばれるようになったという。

鵜戸神宮の創始は不詳だが、古代以来の海洋信仰の聖地で、社伝によれば、本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫主祭神・日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を産むための産屋を建てた場所で、その縁により崇神天皇の御代に主祭神以下6柱の神を六所権現と称して創始され、推古天皇の御代に岩窟内に社殿を創建して鵜戸神社と称したと伝える。延暦元年(782)光喜坊快久という天台僧が桓武天皇の勅命を蒙って別当となり、神殿を再建して別当寺院を建立し、天皇より「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」の勅号を賜ったとも伝える。
楼門の左には櫛磐窓神、右には豊磐窓神を祀る門守社がある。

平安時代以来、海中にそびえる奇岩怪礁とも相まって、修験道の一大道場として「西の高野」とも呼ばれる両部神道の霊地として栄えた。楼門の右手には夫婦岩がある。

夫婦岩の前方には小さな雀岩があり、その先、千鳥橋の崖下には大きな扇岩が見える。

楼門を潜るとすぐ左手に、鵜戸稲荷神社がある。この先約400m上がると、主祭神・日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊の陵墓といわれる「吾平山上陵」がある。また、国指定天然記念物「鵜戸ヘゴ自生北限地」もある。

千鳥橋の手前左手に、種田山頭火の句碑がある。昭和5年(1930)に参詣している。
「鵜しきりに 鳴いて 何を知らせる」

千鳥橋の先には玉橋があり、その先の階段を降りると、いよいよ本殿がある洞窟が見えてくる。

右に茂るソテツの先に広がる海岸を眺めると、先ほどの扇岩の左手前には鶏の姿のような大きな二柱岩が認められた。まさに奇岩である。