半坪ビオトープの日記

青島神社


宮崎県南部から都井岬に至る国道は日南フェニックス道路と呼ばれるが、その最北部に青島海岸が位置する。陸繋島になりつつある青島の対岸に当たる青島海岸は、海水浴場としても知られる。

青島は、周囲860m、面積約4.4ha、高さ約6mの島で、青島海岸から弥生橋によって結ばれている。島の周りには「鬼の洗濯岩」が随所に見られ、「青島の隆起海床と奇形波蝕痕」として、国の天然記念物に指定されている。

砂岩と泥岩が交互に重なった油津層群という地層からなる山が沈降して海に浸かり、波に侵食された後にわずかに隆起して「隆起波食台」という地形が形成され、鬼の洗濯岩と呼ばれる。

青島には200種以上の植物が確認され、そのうち熱帯性及び亜熱帯性植物が27種で5000本以上あり、北半球最北の亜熱帯性植物群落である。中でも檳榔(ビロウ)の大群落は貴重で、「青島亜熱帯性植物群落」として国の特別天然記念物に指定されている。

島の中には青島神社があり、神聖な場所として祭日以外に一般人の立ち入りは禁じられていたが、元文2年(1737)以降、弥生(旧暦3月)後半の一時期に限り一般人の参詣が許されるようになり、明治以降は年間を通じて立ち入りできるようになった。青島は海幸・山幸神話の舞台としても知られるが、境内左手に日向神話館が建っている。日向への天孫降臨から神武の大和平定までを30体の蝋人形と12の場面で再現している。

元来は海洋信仰により創祀されたと考えられ、社伝によれば、海幸・山幸神話で、彦火火出見命が海神宮(わたつみのみや)から帰還した際に青島に上陸して宮を営んだため、その宮跡に命ほか2神を祀ったのに始まるという。神社の旧記によれば、日向国国司の巡視記とされる『日向土産』なる書に「嵯峨天皇の御宇奉崇(あがめたてまつる)青島大明神」と記され、820年代以前から奉祀されていたとされる。
拝殿は切妻造平入り、本殿は流造で、ともに銅板葺、明治15年までは板葺であった。現在の社殿は昭和49年(1974)に火災で全焼後に再建されたものである。

青島神社は、文亀3年(1503)に伊東尹祐(ただすけ)により再興されて以降、伊東氏の篤い崇敬を受け、大永3年(1523)から文化5年(1808)まで6度にわたる社殿の造営や改修が行われた。10月の例祭=秋祭のほかに、島開き祭とも呼ばれる春祭、海上渡御も行われる夏祭、氏子や信者が海水に浴する冬祭が知られる。
祭神として、天津日高彦火火出見命とその妃神・豊玉姫命そして塩筒大神を祀る。いずれも海幸・山幸神話に因む神で、縁結び・安産・航海安全の神として信仰を集めている。

拝殿の左には、彦火瓊瓊杵命、木花咲屋姫命、磐長姫命を祀る石(いそ)神社が建っている。

拝殿の右には、豊玉彦命少彦名命を祀る海積(わだつみ)神社が建っている。

拝殿の右手奥のビロウの群落内を進むと、青島のほぼ中央あたりに、元宮が鎮座している。青島神社の元宮と伝えられ、付近からは勾玉や弥生式土器、獣骨などが多数出土し、古代にここで祭祀が行われていたと考えられている。

元宮の近くに真砂の貝文(かいぶみ)がある。青島は波状岩の上に貝の砂が堆積してできた島だが、中でも宝貝が特に真砂と呼ばれ、それを海岸で探し、貝に願いを込めて奉納し祈願している。

社殿の手前右手に、賽の目神事を行う場所がある。「教え給え導き給え」と唱えながら神賽を振って、今、自分に一番大事なものを占う。

社務所の脇には玉の井という井戸が祀られている。海幸・山幸神話の中で、山幸彦が豊玉姫と出会った場所といわれる。周りを海に囲まれたこの井戸の水には、不思議なことに全く塩分が含まれず、清めの水として使われている。対岸の山頂には海水の湧く場所があり、水源が入れ替わったのだという伝説があるという。