半坪ビオトープの日記

宮崎神宮


宮崎神宮の駐車場から参道に出るとすぐに大きな三の鳥居が建っている。単純明快な形の神明鳥居である。正面突き当たりには、大きな神門が見える。神武天皇を祀る宮崎神宮は昔、神武天皇宮または神武天皇社といわれていたので、地元では今でも「神武さま」と親しみこめて呼ばれている。

神門の手前右手に頑丈な造りの祓所がある。

三の鳥居から神門までは約200m。神明造の神門には屋根を突き抜ける千木と棟の上には5本の鰹木が見える。千木は光って見にくいが、男神であるから外削ぎである。

神門の扉には、皇室との関係を示す大きな菊の紋が配されている。神門の先には石畳が拝所までまっすぐに伸び、石畳の両側には玉砂利が敷かれている。

拝所にも屋根には外削ぎの千木と5本の鰹木があり、方3間切妻造平入である。拝所は一般参詣者が参拝するところである。

柵で囲われた拝所のはるか奥に、一般客を排除した正式参拝用の拝殿がある。拝所の中に「宮崎神宮」の扁額と、祭神である「神武天皇」および「鵜葺屋葺不合命、玉依姫命」の扁額が掲げられている。拝殿の屋根には外削ぎの千木と7本の鰹木がある。

宮崎神宮創祀の由緒は不明だが、社伝によれば、鎮座地は初代神武天皇が東征以前に宮を営んだ地で、後に九州に下向してきた皇子神八井耳命(かむやいみみのみこと)の御子、すなわち皇孫の建磐龍命(たけいわたつのみこと、阿蘇神社の祭神)がその縁に因んで創祀したといい、崇神天皇の時代に初めて社殿が創建され、景行天皇熊襲征討に際して重ねて造営がなされ、さらに応神天皇の時代からは『国造本紀』に載せる日向国造の祖、老男命(おいおのみこと)が祀るようになったと伝える。文献上の初見は鎌倉時代初めまで降り、当地の地頭職にあった土持信綱が現在地に社殿を造営し、皇宮屋(こぐや、元、境外摂社)から建久8年(1197)に遷座したという記録である。『神皇正統記』に神武天皇が「日向の宮崎の宮」から東征したと記すように、中世には東征以前に宮崎に帝都があったとする説も定着し、当宮をこれに充てるようになったと思われ、以後、神武天皇に対する崇敬から歴代領主により深く崇敬された。
本殿は方3間の切妻造妻入。前面に桁行4間の両下造の渡殿が接し、正面7間側面4間の幣殿に続く。幣殿の前面には桁行3間の向拝が付き、左右には渡殿を経て御料屋、神饌所が繋がる。幣殿前方の拝所も含め、いずれも明治40年(1907)の造替にかかり、狭野杉を用材とする銅板葺だが、杉を社殿建築に用材とする珍しい例である。設計は東洋古建築研究家でもあった東京帝大名誉教授・伊東忠太である。

文明5年(1473)に伊東祐国が蓮ケ池と下北方(現、宮崎市)の一部を奉献したのを始め、永禄3年(1560)に有馬永純が社領として2石5斗を寄進、天正5年(1577)には島津義久が米穀や幣帛を奉献している。江戸時代には寛永21年(1644)延岡藩主有馬康純が社殿を造営、天保10年(1839)にも藩主内藤政義による修造が行われている。明治6年に宮崎神社と改称、同18年には官幣大社に昇格し、大正2年に宮崎神宮となった。昭和15年紀元2600年記念の整備事業で現在の境内が完成した。

拝殿の左手には、神事を行うための色々な道具類を保管する御料屋が建っていて、これも回廊で繋がっているが、大きな植栽でよく見えない。

拝殿の右手には、お供え物を調理する神饌所が建っていて回廊で繋がっているが、植栽のためよく見えない。御料屋も神饌所も正面3間側面4間の切妻造である。

参道の右手の木立の中に古めかしい建物がある。宮崎神宮の宝物や書籍を保存し陳列する目的で明治42年(1909)に建てられた徴古館である。木造2階建、寄棟造妻入桟瓦葺で、西正面に切妻屋根を付け玄関とする。外壁は全体を海鼠壁とし、隅と階境に柱型などを造り出し、鉄格子を嵌める上げ下げ窓を等間隔に配する、独特な意匠になる建物で、国の登録有形文化財(建造物)に指定されている。