半坪ビオトープの日記

阿蘇神社


阿蘇山の北側に広がる阿蘇市一宮町宮地に、阿蘇開拓の祖神と崇められる阿蘇神社がある。全国的にも珍しい横参道で、参道の南には阿蘇火口、北には国造神社が位置し、楼門や社殿は東を向いている。参道中央にある高さ18mの楼門は、日本三大楼門(他は鹿島神宮筥崎宮)に数えられる。神社では珍しい仏閣の様式により嘉永2年(1849)に欅材にて建てられた、3間1戸入母屋造1階正面軒唐破風付銅板葺の二層楼山門式の楼門である。屋根は建立当初は杮葺だったものが、大正6年に桧皮葺、昭和50年に銅板葺となった。楼門の右手には神幸門、左手には還御門がある。楼門と嘉永元年(1848)建立の神幸門及び還御門は、国の重文に指定されている。

楼門に架かる大きな「阿蘇神社」の扁額の文字は、有栖川宮熾仁親王の手によるものである。

楼門をくぐると正面に、昭和23年に建てられた大きな拝殿が建っている。阿蘇神社は肥後国一宮、旧社格官幣大社で、全国に約450社ある阿蘇神社の総本社である。社伝では、第7代孝霊天皇9年、神武天皇の孫神の健磐龍命の子で、初代阿蘇国造に任じられた速瓶玉命(はやみかたまのみこと、阿蘇都比古命)が、両親を祀ったのが始まりと伝える。景行天皇18年、惟人命を阿蘇神社初代大宮司以来、91代現宮司まで世襲し、出雲大社の千家家、和歌山の国懸神宮の紀家とともに日本の旧家・名族の家系を誇る阿蘇氏は、速瓶玉命の子孫と称している。国史では「健磐龍命神」及び「阿蘇比竎神」に対する神階奉叙の記事が見え、健磐龍命神は天安元年(859)に正二位、阿蘇比竎神は貞観17年(875)に従三位に昇叙された。延喜式神名帳には、健磐龍命神は名神大社に、阿蘇比竎神は式内小社に列している。

中世以降は肥後国一宮として広大な社領を有していたが、豊臣秀吉九州征伐の際に没収された。その後改めて天正15年(1587)に300町の社地が寄進され、さらに領主となった加藤清正熊本藩主として入国した細川氏によって社領の寄進、社殿の造修が行われた。

拝殿の左手には神饌所、右手には神輿庫の建物が連なるが、拝殿と神饌所の間に一の御殿門がある。これらは拝殿と同じく昭和23年に造営された。

一の御殿門は、一の神殿の拝所である。

阿蘇神社は12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称される。一の神殿は、桁行5間梁間2間、入母屋造正面千鳥破風付軒唐破風付向拝3間銅板葺、天保11年(1840)の建立で、国の重文に指定されている。一の神殿には、初代神武天皇の孫という一宮・健磐龍命(たけいわたつのみこと)、二宮の父で神武天皇の子という三宮・國龍神、一宮の孫である五宮・彦御子神、三宮の子である七宮・新彦神、七宮の子である九宮・若彦神の5柱の男神を祀っている。
一の神殿の右手奥には、三の神殿(別殿)が建っている。三の神殿は、3間社流造正面千鳥破風付銅板葺、天保14年の建立で、国の重文に指定されている。三の神殿には、一宮の子で阿蘇国造の祖という十一宮・國造速瓶玉神、一宮の叔父で第2代綏靖天皇になった十二宮・金凝神の2柱の男神が祀られている。
阿蘇神社の本殿・楼門等の構造は特例の阿蘇式であり、一・二の本殿は入母屋造千鳥破風付で、千木のほか、8本の鰹木を備えている。

神饌所の左奥に山王社と庚申社が合祀されている。慶安3年(1650)に境内末社として創立され、山王社は大国主命を祀り、庚申社は猿田彦命を祀っている。

拝殿の右手には二の御殿門と神輿庫が並んでいる。

二の神殿は、桁行5間梁間2間、入母屋造正面千鳥破風付軒唐破風付向拝3間銅板葺、天保13年の建立で、国の重文に指定されている。二の神殿には、一宮の妃である二宮・阿蘇都比竎神、三宮の妃である四宮・比竎御子神、五宮の妃である・六宮、七宮の娘である八宮・新比竎神、七宮の妃である十宮・彌比竎神の5柱の女神を祀っている。

楼門の手前には神の泉があり、その手前に二之神陵があり、阿蘇都姫命を祀っている。