半坪ビオトープの日記

仁科神明宮

 

仁科神明宮

大町市の東南部の仁科の森に日本最古の神明造を誇る国宝・仁科神明宮が鎮座している。仁科神明宮の一の鳥居を潜って200mほど参道を進んだ傍に駐車場があり、社号標の先の境内に入ると、かなり先の手水舎の左手前に三本杉が見える。さらにその手前左手に神宮寺跡がある。

三本杉
仁科神明宮の大杉・三本杉は県の天然記念物に指定されている。最大の杉の樹高45m、目通り幹囲6.4m、樹齢は800年とされる。中央の一本は1979年に突風により倒れ、今は根本部分だけが元の場所に保存されている。

二の鳥居
手水舎で石畳の参道は左に折れ、木造の二の鳥居の先に石段と三の鳥居が見える。左手には社務所とその先に宝物収蔵庫がある。三の鳥居は1993年に遷宮が行われた伊勢神宮の鳥居を移築され設けられている。

三の鳥居
木造の三の鳥居の先に神門が建っていて、すぐ後ろ一段上がった所にある拝殿や本殿を囲んでいるのが見える。長野県内の神社で神門を設けていることは珍しい。

神門

神門と拝殿は国宝にはなっていないが、かなり格式高く造られている。神門の右手に立つ小さな末社は八幡社である。

 

神門左手の末社
神門の左手にも末社が並んでいる。一番右から伊豆社、稲荷社、上加茂社と続く。

さらに左手にも末社
さらに左手前に折れて下加茂社、上諏訪社、下諏訪社、九頭龍社、子安社と並ぶ。

楽殿
神門の右手前には神楽殿が建っている。神楽殿の右手前にも末社が並ぶ。左から簀社、武山社、愛宕社、熊野社、白山社、鹿島社、春日社、三島社、北野社と続き、さらに二の鳥居の右手奥にも疱瘡社、胡社、山の神社、都波岐社がある。ちなみに珍しい最初の簀(すのこ)社の祭神は穂高見命であり、胡社の祭神は金山彦命であり、都波岐社の祭神は猿田彦命である。

元の御神木の切り株
拝殿の右手には元の御神木が切り株だけ残されている。昔は「仁科神明宮の大杉」と呼ばれ、根回り15m、目通り9m超あったが昭和55年に枯死した。現在の御神木は本殿の後ろにある。

拝殿

仁科神明宮の創始は不明だが、皇大神宮御領であった仁科御厨(みくりや)の鎮護のため、仁科氏によって伊勢神宮内宮が勧請されたことに基づく。建久3年(1192)二所大神宮神主が職事の仰せによって神領の仔細を注進したものを編輯した「皇大神宮建久己下古文書」によれば、当時信濃国には麻績・長田・藤長および仁科の四御厨しかなく、仁科に限り「件御厨往古建立也、度々被下宣旨、所停止御厨内濫行也」と注記されるが、信濃国最古の御厨とされる。拝殿は桁行三間梁間二間の切妻造となっている。

拝殿
拝殿内部には「神明宮」の扁額が掲げられ、格子戸で仕切られた拝殿の背後には中門が備えられている。

拝殿内部の扁額と祓幣
扁額の下には大きな御幣の束が備えられているが、このようにたくさんの紙垂を用い、大きな束にしたものを祓幣という。

拝殿、中門、釣屋、本殿
横から眺めると、拝殿、中門、釣屋、本殿と続いている様子がよくわかる。社殿の形は伊勢神宮と同じ神明造りであり、江戸時代初頭の寛永13年(1636)以後は、それ以前建てられた社殿の部分修理にとどまってきたため、本殿・中門・釣屋は日本最古の神明造りの形を遺しているとして、昭和11年に国宝に指定されている。中門は切妻造檜皮葺きの屋根に四本の柱が設けられた四脚門で、江戸時代中期の建築様式を残している。本殿と中門を寛永13年(1636)に建立した大工は、金原周防守。釣屋は本殿と中門の間を垂木、檜皮葺の切り妻の屋根で繋いでいる。

本殿
反対側から眺めると、本殿は桁行三間梁間二間の神明造で、平千木と六本の鰹木、太い棟木と檜皮葺きの屋根を支える太い棟持柱、さらには破風板にそれぞれ四本の鞭懸があるなど古式の内宮式神明造りの特徴をよく表している。