半坪ビオトープの日記

中山神社


津山市一宮にある中山神社は、美作国唯一の式内社名神大社であり、美作国一宮である。二宮の高野神社とともに『今昔物語』『宇治拾遺物語』にもその名がみえる。折口信夫池田弥三郎らは、『古今和歌集』にみえる「吉備の中山」を当社に比定している。
寛政3年(1791)に建てられた花崗岩製の大鳥居は、貫が貫通せず、つまり角貫に木鼻がなく、笠木と島木に反りをもたせて壮大美を強調している、他に例を見ない形式で、「中山鳥居」と呼ばれる。

鳥居をくぐってすぐ左手に立つ「名木百選」のムクノキは、推定樹齢500年、目通り5.3m、高さは23mある。

御手洗川にかかる石橋を渡ると神門が建っている。この神門は、津山城二の丸にあった四脚門を明治初頭に移築したものであり、津山市指定重要文化財に指定されている。切妻の屋根を支える2本の柱の後ろに控え柱の建つ薬医門で、屋根は檜皮葺である。

中山神社慶雲4年(707)に創建され、貞観6年(864)に官社となり、永保元年(1081)に正一位の神階を授かっている。社殿は瑞牆に囲まれ、切妻の平唐門の中門がその入り口に建っている。

社名は現在「なかやま」と読むが、かつては「ちゅうぜん」「ちゅうざん」と音読みしていた。別称として「仲山大明神」や「南宮」とも呼ばれたという。
拝殿は入母屋造平入りの建物で、特に目立った彫刻や装飾の見られない質素な造りとなっている。向拝の下に大きな注連縄が掲げられており、拝殿の奥に本殿が認められる。

本殿(附宮殿3基・棟札2枚)は、永禄2年(1559)出雲国富田城の城主尼子晴久が再建したもので、国の重文に指定されている。主祭神として鏡作神(かがみつくりのかみ)を祀る。鏡作神とは、鏡作部の祖神で、別称、石凝姥神(いしこりどめのかみ)の神業を称えた呼び名である。石凝姥神とは、天孫降臨の五部神で八咫鏡を造った神である。相殿神として、石凝姥神の父神である天糠戸神(あめのぬかどのかみ)と、鍛冶屋の神である金山彦神を祀る。

入母屋造方三間妻入りの独特の建物で、以後の美作国の神社建築の範となり、中山造と呼ばれる。屋根は檜皮葺で、向唐破風の向拝が付けられている。
国家非常時には勅命により特に全国七カ国の一宮(武蔵、上野、伊豆、駿府、若狭、美作、肥後)を選び、国家安穏を祈願するが、当社も選ばれて祭祀を厳修したとされる。当社の神鉾祭の神事、御注連祭(おんしめまつり)は、天慶の乱平将門の乱)や蒙古襲来の際に、各地で行われた異国降伏祈願に由来している。

神門の左側には神楽殿が建っている。神楽殿の右横には末社の総神殿(惣神殿)が建っている。総神殿は寛保元年(1741)の造営であり、祭神として山上山下120社を祀っている。社殿は中山造で、津山市重要文化財に指定されている。摂末社はかつて112社あったが、尼子晴久の美作攻略の際に焼失し、現在は5社のみが残る。

神厩には、神馬だけでなく神牛も一緒に奉納されていた。

社殿の左手奥には国司社(くにししゃ)が建っている。国司社は祭神として大国主命を祀っている。

国司社の先をさらに進むと、左手の石段の上に御先社(御崎社)がある。御先社は、中山の神の祖神を祀っている。中山の神の側にあって供をするという義で、一般には稲荷神として信仰されている。

さらに進むと猿神社の鳥居がある。その先を進んでいくと裏山の斜面を上がっていく。途中で引き返してしまったが、上にある猿神社は、今昔物語にみえる「中山の猿」の霊を祀るとされ、現在は祭神として猿田彦神を祀っている。

鳥居の手前左手に名木百選の「祝木(いぼぎ)のケヤキ」がある。推定樹齢800年、目通り周囲8.5m、樹高10m。尼子の兵火以前のもので、正面の小祠には大国主命が祀られている。