半坪ビオトープの日記

金刀比羅宮、本宮


旭社の向かって右側に石段があるが、それは下向道(帰路)である。旭社を左手に見ながら廻廊に沿って北へ進み、唐銅の鳥居をくぐる。この鳥居は、慶応3年(1867)に伊予松山松齢講より献納された黄銅鳥居である。

鳥居の先に唐破風と千鳥破風の棟が交錯する檜皮葺の屋根を持つ優雅な賢木門があり、その門をくぐると右手に遥拝所がある。流造銅板葺の神籬殿と切妻造銅板葺の拝殿からなる。皇廟(伊勢神宮)や皇陵を遥拝する所で、ともに明治13年の建立である。拝殿の左右には石像麗狗がある。

花崗岩神明造の鳥居のある闇峠の先にある連籬橋を渡ると、正面に入母屋造銅板葺の真須賀神社がある。祭神として、建速須佐之男尊奇稲田姫尊を祀る。本宮祭神である大物主神の祖神にあたる。

須賀神社を左折すると御前四段坂という急な石段が続く。その途中の右手に御年神社と事知神社がある。御年神社の祭神は、大年神・御年神・若年神である。大年神素戔嗚尊の子、御年神は大年神の子、若年神は御年神の弟神の子である。農作穀物を司る神である。社殿は流造銅板葺である。

事知神社は、御年神社の少し上にある。社殿は流造銅板葺。祭神として積羽八重事代主神・味鉏高彦根神・加夜鳴海神を祀る。商売繁盛の夷様として広く信仰される。三柱とも大物主神の子神にあたる。

御前四段坂を上りきると本宮である。本宮社殿の創立は不詳だが、長保3年(1001)藤原實秋が一条天皇の勅を奉じて改築したのに始まり、その後の元亀4年(1573)の改築、天正年間(1573~92)の長曽我部元親による再営を経て、万治2年(1659)の高松城主松平讃岐守頼重による改築に至り、明治11年(1878)の改築で現在の社殿ができた。

金刀比羅宮の由緒については二つの説がある。一つは、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祀った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と集合して金毘羅大権現と称したとするものである。もう一つは、もともと象頭山にあった真言宗の松尾寺に金毘羅が鎮守神として祀られており、大宝年間に修験道役小角神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。
いずれにせよ金刀比羅宮は、明治維新神仏分離廃仏毀釈以前は真言宗象頭山松尾寺金光院であり、神仏習合象頭山金毘羅大権現と呼ばれた。現在は金刀比羅本教の総本部で、全国の金刀比羅神社琴平神社金比羅神社総本宮である。本宮には祭神として、大物主神崇徳天皇を祀っている。

本殿・幣殿・拝殿にはヒノキ材が用いられ、檜皮葺の大社関棟造である。本殿の左右の壁板と、本殿・幣殿・拝殿の天井には桜樹の蒔絵が施されている。本宮の右にあるのは、入母屋造檜皮葺の神饌殿であり、本宮拝殿とは北渡殿でつながっている。神饌殿は、祭典や毎朝夕に神前に献ずる神饌を調進する所である。

本宮の北東側には海抜約250mの人工の高台が広がり、展望台になっていて讃岐平野の彼方に瀬戸大橋や讃岐富士が眺められる。

本宮の向かいには、入母屋造檜皮葺の神楽殿が建っている。祭典の際に、伶人楽や雅楽を奏する所である。

本宮の左には、本宮詰員の控所である直所があり、本宮の前には神木の楠が立つ。幹周りは約4.7m、高さは約25mある。