半坪ビオトープの日記

東楽寺、出石神社


大乗寺から東南に向かい、豊岡盆地の中央付近、円山川と出石川の合流点近くに高野山真言宗の東楽寺がある。鐘楼を兼ねた大きな山門が珍しく、その向こうに本堂が見える。

東楽寺は約1180年前に弘法大師によって開かれたと伝えられ、一山の本尊は弘法大師が中国より請来した聖天尊(歓喜天)で秘仏のため一切ご開帳はない。日本三大聖天の一つに数えられるあまりにも有名な歓喜天で、古来より災害を除き、所願成就の仏様という信仰がある。通称、豊岡聖天とも呼ばれ、但馬一円から参詣する人が多い。

東楽寺は延喜元年(901)落雷による焼失後、延長年間(923-31)に再建されたが、再建に際して一山守護を祈念して造立された四天王像は、檜の一木彫刻で、藤原時代中期の作風をよく表し、甲冑は簡素だが体躯は重厚な風格を持ち、国の重文に指定されている。

豊岡盆地の東南に続く、出石盆地の東縁の山裾に出石神社がある。現在の出石市街地は天正2年(1574)に山名氏が居城を此隅山城から有子山城に移してから発展したが、その北2kmに位置する出石神社付近がかつては周辺一帯の中心地であった。

出石神社は。『古事記』や『日本書紀』に記される渡来新羅王子の天日槍伝説の中心となる神社で、現在の祭神には天日槍が将来したという八種神宝の神霊(伊豆志八前大神)および天日槍の神霊を奉斎し、地元では出石の開拓神としても信仰される。

古くから但馬国では随一の神威を誇り、延長5年(927)成立の延喜式神名帳では「伊豆志坐神社」として式内社名神大社となっている。中世・近世には但馬国の一宮にも位置付けられ、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」とも通称されている。
神門は丹塗りの八脚門で、多くの蟇股が鮮やかに彩色されている。

拝殿は入母屋造平入りの舞殿形式で、屋根は銅板葺。特に身舎屋根とは独立して平唐破風出桁造の向拝を持つ。社殿は大正3年(1914)の再建で、豊岡市指定文化財に指定されている。

拝殿の奥に幣殿・祝詞殿が続いている。社宝として、明治14年(1881)寄進の脇差(国の重文)のほか、歴代領主の甲冑や古文書などを伝世している。

本殿は、三間社流造で屋根は銅板葺。本殿前に幣殿・祝詞殿(いずれも切妻造)が接続し、両殿の左右から透塀が出て本殿を囲む。

境内に末社が並んで建っている。左が比売神社(比売社)で、祭神として麻多烏(天日槍の妃神)を祀る。右が稲荷神社(夢見稲荷神社)で、祭神として宇賀能魂を祀る。他にも市杵島比売神社と菅原神社がある。

但馬の小京都とも呼ばれる、現在の出石町の市街地は、出石神社の南に位置する出石城跡の手前の城下町として発展している。出石城は慶長9年(1604)、小出吉英により築かれたが、明治元年に取り壊された。白亜の土塀と長屋門のある家老屋敷は、出石城内に唯一残る江戸後期の武家屋敷で、刀を使い難くするために天井は低く造られ、正面からはわからないように珍しく2階も設けられている。

館内には出石大名行列槍振りの諸道具や「江戸時代の三大お家騒動」の一つといわれる「仙石騒動」の資料などが展示されている。

出石の街には蕎麦屋が50件もあり、300年の伝統を持つ「出石皿そば」が有名である。宝永3年(1706)、信濃国上田藩より但馬国出石藩に国替えとなった仙石政明が、蕎麦(信州そば)職人を連れてきたことに始まるとされ、幕末の頃には割子そばの形態になったという。店では普通一人前5皿で、食べたお皿を重ねて箸の高さになるとそば通と言われる。