半坪ビオトープの日記

榛名神社、本殿


榛名神社は、延長5年(927)の延喜式神名帳には、上野国十二社の群馬郡小社として記録されている。社伝によれば、用明天皇元年(585)に祭祀の場が創建されたといわれる。中世には上野国六の宮と位置づけられ、南北朝時代には主導権争いが展開された。北朝に組していた頼印が榛名山の支配者となり、頼印と室町幕府との関わりから幕府の手厚い庇護を受けたが、戦国時代には座主職も置かれず衰微した。近世に入り天海僧正の手により復興された。東叡山輪王寺宮兼帯所となり、榛名山巌殿寺・満行宮と称した。その後、明治の神仏分離令により元の榛名神社という社号に復した。

本殿は、文化3年(1806)に再建された、銅板葺き権現造の複合建築である。

拝殿は正面、左右上下とも技巧を凝らした彫刻が施されていて、目を見張る出来である。とりわけ向拝の彫刻は、見事としか言いようがない。装飾された虹梁の上の鷲と思われる意匠も珍しい。その上の二重虹梁に乗る人物像は、中国の故事に因むものと思われるが、これもまた珍しい。

祭神は、中世以降には元湯彦命が祀られ、「榛名山志」には東殿・饒速日尊、中殿・元湯彦命、西殿・熟真道命と記されている。明治元年主祭神として、火の神・火産霊神と土の神・埴山姫神に改められ、水分神・高靇神・闇靇神・大山祇神大物主神木花開耶姫神が合祀されている。

左手が拝殿、右側が本社で両社を繋ぐのが幣殿である。拝殿は、入母屋造、正面千鳥破風、両側面と向拝に軒唐破風をつける。この面が、拝殿の側面である。

幣殿は、両下造、正面1間、側面3間。本社は、隅木入春日造、正面3間、側面2間。本殿の背後に御姿岩が屹立する。神の依代とも、神そのものの姿ともいわれる。御姿岩の下部には洞窟状の空間があり、そこに「御内陣」と呼ばれる祭神を祀っている。御内陣の一切については秘中の秘とされる。その洞窟から付け出して本社・幣殿・拝殿が建てられている。

本社の彫刻も拝殿に劣らず精巧に施されている。とりわけ高欄下の須弥壇の彫刻まできちんと意匠化されていることに注目したい。

本社と拝殿の繋ぎにあたる幣殿側壁の頭貫、木鼻、蟇股、中備などの彫刻も手が込んでいる。

拝殿の高欄を支える出組の持ち送りも派手な丸彫りで目を引く。