半坪ビオトープの日記

飯香岡八幡宮、拝殿


12月下旬に房総半島の養老渓谷と鴨川を巡った。養老渓谷は房総半島のほぼ真ん中にあるので、最初は手前にある市原市の飯香岡八幡宮に立ち寄った。市原市は、古代に上総国分寺も置かれた上総の中心地で、国分尼寺の寺域は全国最大の規模を誇る。周辺には3世紀半ばの神門古墳群や、旧石器時代から中世に至る複合遺跡の草刈遺跡など、古代の遺跡が集まっている。
平安時代には国府近くの神社を合祀した総社を兼ねて国府総社八幡といわれた。

一の鳥居には、珍しく昇り竜・降り龍の彫刻が施された神額が掲げられている。鳥居は昭和46年に再建されているが、天保12年(1841)に掲げられた扁額の八幡宮の文字は、天保7年の神祇管領吉田良芳の筆という。

飯香岡八幡宮として鎮座する以前は六所御影神社と称したといわれ、日本武尊東征の折、六所御影神社で休息した際、社人が日本武尊に食事を捧げたところ、飯の香りを賞した故事により、御影山を飯香岡と呼ぶことになったという。
社伝によれば、天武天皇の白鳳4年(675)一国一社の八幡宮として勧請されたことに起源をもつという。天平宝字3年(759)全国放生の地に鎮座する国府八幡宮と定められ、国府司祭の放生会を現在に伝える上総国の古社の一つである。保元3年(1158)山城国石清水八幡宮の文書に「上総国市原別宮」と記載され、中世以降、源氏・千葉氏・足利氏の崇敬を集めた。徳川家の崇敬も厚く、家康より社領150石という上総国では破格の扱いを受けた。

拝殿は、正面5間、側面3間で、屋根は入母屋造銅板葺である。正面中央に千鳥破風をつけ、向拝中央は軒唐破風となっている。墨書銘によって元禄4年(1691)の建立とされる。

拝殿の正面1間は両開き桟唐戸、両脇・両側面は蔀戸である。扁額には、国府総社と書かれている。

3間の向拝の柱は唐戸面の角柱で、4本の海老虹梁が架かり、牡丹を刻んだ手挟を備えている。

拝殿内部は左右1間を畳敷きの脇の間とし、中央は板張りで幣殿に続いている。主祭神として、中殿に誉田別命応神天皇)を祀り、左殿に息長帯姫尊、右殿に玉依姫命、前殿に猿田彦命を祀っている。相殿には、日本武尊経津主命天穂日命事代主命などを祀っている。勝海舟が揮毫した社号額が掲げられているというのだが、見落としてしまった。

本殿は、正面3間、側面2間の単層総丹塗、屋根は銅板平葺の入母屋造で、3間の向拝がついている。室町時代末期の建築とみられ、太い木組みや組物・彫刻・面取角柱などの部材は力強く簡素であり、国の重文に指定されている。

拝殿の左では、逆さ銀杏が多くの枝を空に向けて一斉に広げている。平安時代末期、源頼朝が平家に追われた際、逆境の自身を銀杏になぞらえ、上下逆に植えて源氏の再興と自身の出世を祈願したという。

本殿の斜め左奥に三つの社が祀られている。向かって左から大神宮、飛鳥宮、高良神社である。大神宮には食を司る豊受毘売命が祀られ、飛鳥宮には天武天皇が祀られ、高良神社には高良玉垂命が祀られている。飯香岡八幡宮天武天皇の勅命によって鎮座されたと伝承されているので、飛鳥宮に祀られている。高良玉垂命とは、本殿の主祭神である応神天皇に仕えた武内宿禰のことといわれ、八幡宮には摂社として高良神社を祀ることが多いという。

社殿の左手には、神龍泉がある。龍の口から御神水が流れ出ている。