半坪ビオトープの日記

飯香岡八幡宮、夫婦銀杏


境内にはいろいろな摂社のほか、石碑や銅像などがいくつも立ち並んでいる。この摂社の詳細はわからない。左の石碑は安政2年(1855)の林文暁伝碑である。本名は岸本信成、竹を愛して林と称し、文暁は号なり。越中富山の城主・佐々成政の胤で、成政が秀吉に敗れた後、諸国を遍歴し、南総八幡に住んで38年、門人・子弟に広く教授したという。
左手前には珍しい葉付き銀杏の案内がある。

右手の石碑は、明治40年(1907)の月洲庵知雪の句碑である。千葉県知事を勤めたそうだ。
名月や あさなき鳥も おきている 知雪
左の石碑は、昭和35年の漁業組合記念碑である。明治35年に設立された八幡五所浦漁業組合は、京葉工業地帯造成による全魚場埋め立てに同意して昭和34年に解散した。

拝殿手前、参道の右手に神楽殿が建っている。秋季大祭には氏子の小学生によって巫女舞が奉納される。秋季大祭の中心的神事は柳楯神事である。柳は神降臨のための霊木で、八幡神は武神であるため、柳で作った楯であるとされる。柳の小枝25本と青竹5本で作った柳楯を、市原地区の2軒の司家(森家)が一年交代で担当し、神輿の先頭にたって町内を渡御して本殿に安置される。

拝殿の右手には大きな銀杏が立っている。途中から二股に分かれていることから夫婦銀杏と呼ばれる。白鳳4年(675)の鎮座を記念して、勅使桜町中納言季満が植えたと伝えられている御神木である。銀杏の手前に二つ石碑があるが、右の碑が勅使季満の歌碑である。
君が為けふ植そへし銀杏樹(ちちのみ)に いく世経んとも神やどるらん (明治24年 落合直亮謹書) 落合直亮は、幕末の志士で、相良総三と共に倒幕運動に身を投じた。維新後は、塩竈神社宮司伊勢神宮禰宜静岡県浅間神社宮司などを歴任した。

本殿の斜め右奥に忠霊塔が立ち、その左に五つの摂社が並んで建っている。

左から海辺神社、若宮神社、天神社である。

天神社の右には金比羅神社、ものがみの社が建っている。残念ながら、海辺神社・ものがみの社の詳細はわからない。

忠霊塔の手前に大きな石碑が建っている。多分、日清か日露の凱旋碑と思うが、詳細はわからない。

夫婦銀杏の右手には、立野信之文学碑が建っている。市原市出身の立野信之は、二・二六事件を題材にした小説「叛乱」で直木賞を1953年に受賞した作家である。

境内は南西の方にも伸びていて、一番右手奥に浅間神社がある。例祭は旧暦6月1日の富士山の山開きの日である。この八幡は富士講が盛んな地で、浅間神社の左手奥に小高い富士塚がある。

浅間神社の左手には、出羽三山が祀られていて、毎月8日に八日講と呼ばれる行事がある。