亀岡市南部、上矢田町の面降山(めんこうやま、天岡山)東麓に鍬山神社がある。太古は湖であったという亀岡盆地において、祭神の大己貴命(大国主命)が国作りの一つとして保津峡を開削して盆地を開拓、そして開削に使った鍬を当地に山積みしたという伝説に基づく神社である。
境内には多くの紅葉が植えられ、「矢田の紅葉」と呼ばれる紅葉の名所として知られる。境内社も多く祀られている。参道右手に屋根がかかってまとめて祀られているのは、左から金山神社・樫船神社・高樹神社、日吉神社、熊野神社。
その右手に小さな屋根に囲われて祀られているのは、稲荷・疱瘡神社。
当社は矢田社や矢田宮とも呼ばれるが、地名の矢田とは、楽田・油田・華田・八日田・相撲田・馬場田・雑用田・奉射田という八つの神田を持っていたことから八田といわれ、後に源頼政が当地を拝領するにあたって矢田に改めたと伝えられる。境内中央に拝殿が建っている。
拝殿の後方には左右同規模の社殿が並んでいる。拝殿内に掲げられた扁額に書かれた「矢田八景」とは、矢田社に奉納された和歌である。鍬山神社には氏子だった奥田孕月が絵師村山松領に描かせた絵巻「矢田社奉納和歌(矢田八景)」が奉納されている(安政4年、1857)。八景とは、「天岡夏雲」「社頭丹楓(鍬山神社の紅葉)」「大枝涼月(大江山の月)」「愛宕初雪」「保村婦鷺(保津川の白鷺)」「年山夜雨(千歳山)」「桂峯朝霞」「亀城秋霧」であり、晩秋から冬にかけて深い霧が立ち込める亀岡の「丹波霧」が昔から有名だったことが窺われる。
向かって左手(南)が鍬山神社の本殿である。八幡宮は右手にある。両宮は同一の形式・規模であり、造営時期も文化11年(1814)と同じである。鍬山宮は寛正3年(1462)以来の棟札を現存している。社伝では鍬山宮の創建は和銅2年(709)といい、当初は面降山裏手、現社地から北西800mほどの医王谷にあった。面降山山頂には八幡宮が降臨したという影向石が残り、周辺には古墳も多い。古くから神輿祭・八日祭・庭燎神楽・競馬・相撲・猿楽等の祭礼が行われていたと伝わるが、天正4年(1576)に丹波へ侵攻した明智光秀によりそれらの祭礼は廃され、別当寺として大智院が建立された。慶長14年(1609)亀山城主・岡部長盛が現社地に新社殿を造営して遷した。延宝9年(1681)には杉原守親が『祭礼中興記』を記し祭礼を再興。以来、例大祭は口丹波一の大祭「亀山祭(のち亀岡祭)」として賑わった。向拝には神紋である二羽のうさぎが遊ぶ。
形式は一間社流造で、千鳥破風を有する。正面に一間の唐破風造の拝所を付属して一体とし、屋根は杮葺。
境内には約一千本のもみじが随所に絶景を繰り広げている。紅葉の華やかさも見事だが、その下で負けじ劣らずと赤く染まっているドウダンツツジも色鮮やかである。