半坪ビオトープの日記

備中国総社宮


岡山市の西隣の総社市備中国総社宮がある。創建は不詳だが由緒書によると、総社ができる以前、当地には仁徳天皇の皇妃・八田皇女の名代として八田部(八部)が設けられたという。のち御友別(応神天皇妃の兄)の子孫が当地に移住し国造となり、野俣神社(現、境内社の沼田神社)を建て、周辺一帯の総社としたとされる。大化後、当地に備中国総社が創建された。
境内は広く、屋根付きの回廊が南から北へ、拝殿前には東向きに三方向に設けられている。拝殿前のこの東向きの回廊が表参道と思われる。一般に神社は南向きが多いが、備中国総社宮の社殿が東向きなのは、神を拝む西に冬至の夕日が沈む伊与部山(山上に宮山古墳がある)があるからとか、国府が東にあるからとかいわれる。

古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたが、平安時代末期に巡拝の手間を省くため、国府の近くに備中国内324社の神社を合祀し総社とした。室町時代には福山の戦いの戦火に遭って社殿が焼失、正長2年(1429)に再建されたとされる。戦国時代頃には総社を総社宮とか総社大明神と呼ぶようになった。天正年間(1573-92)に再び焼失、貞享4年(1687)に再建された。

拝殿の後ろには幣殿、祝詞殿が続き、その左手に本殿が建っている。本殿は昭和52年(1977)にも焼失し、翌々年に再建されている。

主祭神は、大名持命(おおなもちのみこと、大国主命)とその正妻である須世理姫命で、相殿神として御鎮魂八柱神=高皇産霊神神皇産霊神、魂留産霊神、生産霊神、足産霊神、大宮売神事代主神、御膳神(みけつかみ)の8柱、末社12社、備中国内304社、計324社の神を祀る。
本殿の左手には長屋のような寄宮が祀られている。

本殿の左手に見える朱色の屋根は、大神神社であり、その左の神輿庫のさらに左手に半分見える小さな神社が荒神社である。荒神社の創建は不詳だが、この土地を初めて開いたときに木の神や石の霊等を慰め祀ったという。祭神として猿田彦大神火産霊神大土神を祀る。文久元年に新しい神像が奉納された。

大神(おおみわ)神社は、大和国一宮の大神神社より勧請され、大物主命(大国主命)の和御霊を祀る。末社の中では沼田神社に次いで尊崇され、天正年間頃には神田があり、古くは本殿より先に神饌を供える習慣があったという。

荒神社の左手には神楽殿が建ち、さらに左に末社がいくつも並んでいる。一番左、簡素ながらも拝殿を備え、石段の上に建つ神社は、末社琴平神社である。祭神として大物主命(大国主命)を祀る。古末社の中には名がないが、一の宮より十の宮までの末社があった。江戸時代中期に大国主の神像が十柱作られ祀られた。
その右の標柱に隠れて見えにくい小さな末社は、和霊神社である。愛媛県宇和島鎮座の和霊神社より勧請された。伊達秀宗の忠臣であった山家清兵衛の霊を祀る。
さらにその右に見える末社は、清正公神社である。加藤清正の威徳を仰いでその霊が祀られた。

南参道には長い回廊があり、その途中には、隋神門が建てられている。

南参道の東側にもいくつも末社がある。平安時代中期の『延喜式神名帳』には、式内社として「備中国賀夜郡野俣神社」の記載があるが、沼田神社はこの論社とされる。現在は沼田天神とも呼ばれ、菅原道眞を祀る天満宮と一緒に祀られている。
その右手の小さな神社は笑主(えびす)神社である。事代主神(恵比須)を祀る。現在の社殿は嘉永2年に再建されている。

沼田神社の裏手の神池には厳島神社が建っている。祭神として市杵嶋姫命・湍津(たぎつ)姫命・田心(たごり)姫命を祀る。天照大神御子神で水の神の神格から、中世以来、七福神の一つの弁財天とされた。
神池に三つの島を置く、三島(さんとう)式庭園は、上古の頃、渡来人によって作庭された心字池で、江戸期に変形されたが、仁和年間の古図をもとに復元された。後楽園が築造される際に参考にされたという。

南参道の長い回廊を東参道と交差するところから振り返って見ると、途中にある隋神門もわからないほどで、回廊の長さは100mほどあると思われる。