半坪ビオトープの日記

大避神社、生島


兵庫県の西南端にある赤穂温泉に泊まった翌朝早く、瀬戸内海三大祭りの一つ「坂越の船祭り」で知られる坂越の大避神社に向かった。今の坂越は「さこし」と呼ばれるが、元の呼称は「シャクシ(シャクジ)」で、尺師・釈師と記す。天然の良港をもつ坂越は、赤穂城下よりも歴史が古く、往時はこの坂越が物流の中心だったという。冬になると多くの牡蠣好きが訪れる坂越は、聖徳太子四天王の一人として活躍した秦河勝ゆかりの地であり、銘酒「忠臣蔵」の造り酒屋などもある。
坂越湾の海岸から続く参道の先に大避(おおさけ)神社があり、背後には宝珠山茶臼山)が認められる。

参道の突き当たりには大きな社号標が建ち、石段を上がると大きな随神門が構えている。延享3年(1746)の再建であり、表側に随神像(右大臣、左大臣)が、裏側に仁王像が背中合わせに配置されているという珍しい形で、神仏習合の名残をとどめている。

境内に入るとすぐ右手に、菅原道眞を祀る天満神社が建っている。元は道真公来浦の由縁で天神山(北之町)に鎮座していた。その右手の恵美須神社は、蛭子神を祀り、元は本町海岸に鎮座していた。天満神社の左手前の大きな松の木の下に建つ石碑は、能「河勝」の原作者・梅原猛の句碑である。「ひょんの実に似たるうつぼで流れ着き」大避神社の祭神・秦河勝聖徳太子亡き後、戦を避けて終焉の地、坂越浦へ流れ着いた伝説を詠んだものである。
ひょんの実とは、坂越浦の一角に自生するマンサク科の常緑高木、イスノキの虫こぶで、出入り口の穴に唇を当てて吹くと笛として遊べる。

参道正面の12段の石段を上がると拝殿が構えている。随神門と同じ延享3年(1746)の再建で、唐破風を具えた豪華な2階建建物。拝殿の裏に続く本殿は、明和6年(1777)の再建の欅造。入母屋造の社殿というが、高い塀と樹木に遮られてよく見えない。祭神として、大避大神(秦河勝)、天照皇大神春日大神を祀る。

秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団とされる。秦河勝秦氏の族長的人物として聖徳太子の元で活躍し、京都最古の寺とされる広隆寺を建立、聖徳太子より賜った弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)を安置したとされる。

広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って広隆寺境内から分散し遷座したものとされ、当社も大避(大酒)といわれる由縁の一つである。河勝は太子死後の皇極3年(644)、蘇我入鹿の迫害を避けて海路をたどって坂越に至り、千種川流域の開拓を進めたのち、大化3年(647)に80余歳で死去、地元の民がその霊を祀ったのが当社の創建という。大避神社は明治初期には赤穂市に20社ほどあり、隣の相生市や近隣の地方でも数社認められるという。広隆寺近辺の大酒神社も元は「大辟神社」と表記したといわれる。また、大避神社の「大避」は延喜式以後であり、それ以前は「大闢(だいびゃく)」と書かれていたともいわれるなど、大避神社の由来にまつわる話は尽きないが、残念ながら素人には簡単に判断できない。
大避神社には、河勝が弓月国から持ち帰ったという天使ケルビム(智天使)の像とされる胡王面があり、日本に現存する最古の雅楽の面として伝えられる。河勝は猿楽の始祖ともいわれ、観阿弥世阿弥親子や、楽家である東儀家などが末裔を称し、金春禅竹金春流も河勝を初世として伝えている。
拝殿内の格天井には、12×8枚の花鳥獣が極彩色で描かれている。

拝殿の両翼には絵馬堂が延びていて、40余りの絵馬が掲げられている。左側の絵馬堂のさらに左手には淡島神社がある。和歌山県の加太より勧請され、淡島大神を祀っている。

左側の絵馬堂にある絵馬を見ると、左手に掲げられている「坂越の船渡御祭り」での、十二番の歌船からなる和船12隻が船行列を組んで海上を進む祭礼の姿がとりわけ目を引く。

右側の絵馬堂を見ても、古く歴史を感じさせるものの中に新しいものも含まれるのがわかる。中には日本最古級の船絵馬とされる明和年間(1764-72)の帆掛船の船絵馬があるというが、古い絵馬はすっかり掠れていて、どの絵馬か確認はできなかった。

新しい絵馬で目立つのが二つあった。左の絵馬は猿楽の始祖とされる河勝の末裔を称する東儀家の奉納で、右の絵馬は梅原猛新作能「河勝」の舞台を再現した絵馬である。

右側の絵馬堂の左手下に、「坂越の船渡御祭り」で、秦河勝墓所がある生島へ渡る、屋台船の楽船が展示されている。毎年10月に行われるこの祭礼では、大避神社で祭典を行なった後、神輿・獅子舞などが山道を海辺まで歩き、櫂伝馬、獅子船、頭人船、楽船、神輿船、供奉船、歌船など12隻の和船が生島のお旅所まで坂越湾を渡御する。江戸時代初期からの歴史を持ち、国の無形民俗文化財に選定されている。

絵馬堂の右手前にある新宮には、聖徳太子住吉大神金比羅大神・海神社の大神を祀る。新宮の右手奥の長い石段の上にある稲荷神社は、元は生島に鎮座していたという。

大避神社から海辺に戻って振り返って見ると、裏手にはかつて茶臼山城があったという宝珠山茶臼山)が控え、山の中腹にかすかに認められる妙見寺は、神仏習合時代は大避神社の神宮寺という。寺伝では8世紀中頃、行基を開山として創建された真言宗の寺院である。

海辺の正面の坂越湾に浮かぶ生島は、秦河勝の墓があって大避神社の神域でもあり、現在でも人の立ち入りが禁じられている。そのため190種余りの植物が形成する原始林は、「生島樹林」として国の特別天然記念物に指定されている。