半坪ビオトープの日記


兎川寺から500m南東、針塚古墳から500m東に、須々岐水(すすきがわ)神社がある。古来より須々岐水神と称し、薄川の神を祀ってきた。
平安初期に信濃国府が筑摩郡に移転後は山家郷開発の祖となり、延暦18年(799)山辺高句麗系渡来人が朝廷より須々岐の姓を賜ったと日本後記に記されている。石造の明神鳥居の奥に木造の両部鳥居が見える。

鎌倉時代に諏訪上社系神(みわ)氏が山家氏となり地頭職として山辺郷を領知するに及び、祭神を建御名方命・素盞鳴命に改めた。近世に至り薄宮大明神とも称され、松本歴代城主の崇敬篤く寄進が相次いだ。寛永年間、城主戸田氏より一・二・三の鳥居が寄進され、現存する木造大鳥居はその三の鳥居と伝えられる。この両部鳥居のことだろう。

享保年間より逐次お船が造られ、天保年間に至り諏訪の名匠立川一門による見事なお船が完成され、毎年5月5日に例大祭お船祭りが行われる。9つの町会が江戸時代以来のお船(山車)を引き回して、田植の始まりを告げ、秋の豊作を祈願する。お船祭りは薄川に沿って上流より、大和合神社、宮原神社、須々岐水神社、筑摩神社と4ヶ所行われているが、ここの須々岐水神社お船祭りが規模が最も大きいようだ。須々岐の姓を賜った高句麗系渡来人が、大陸から船で渡ってきたことを象徴する船祭りと思われる。拝殿は、明治12年(1879)の建築である。

拝殿の右手には神楽殿だろうか、薄宮大神の扁額がかかる建物がある。

拝殿の裏手には本殿が見える。その手前には御柱が立っている。中世より卯年酉年には諏訪同様の御柱祭が行われているそうだ。
本殿の建築年代は明らかではないが、延宝8年(1680)以降の棟札が数多く残っているという。

境内の桜之宮には聖徳太子が祀られているそうだが、どれかは分からなかった。社殿の裏手の方にも小さな末社がたくさん祀られていた。

薄川上流の明神平に奥社があり、そこに降りた神がススキの葉の船に乗って薄川を下り薄畑に着き、須々岐水神社の場所に移った、という伝承がある。ススキの葉は川岸で擦れて、片葉の薄となって今でも境内に残っている。江戸時代後期の旅行家、菅江真澄もこの社を訪ねていて、菅江真澄の紀行文「来目路の橋」に、須々岐水神社に詣でて見た薄明神とススキの挿絵まであるという。
「ぬさとれば薄の宮のほのぼのと あけの玉がさ 風の涼しさ」    との歌を詠んでいる。