浦郷港の少し西にある由良比女神社の向かいに、鳥居と人型看板が立つ風変わりな由良の浜がある。「イカ寄せの浜」と呼ばれるこの入江では、明治・大正から昭和の20年代にかけて、毎年のように冬にイカの大群が押し寄せ、イカを拾い集める人で溢れたという。昭和3年2月には数万匹、昭和43年11月には一万六千匹拾ったという。祭神である由良比女命が芋桶に乗って、遠い海から手で海水をかき分けながらやってきた時、由良比女命の手にイカが噛みつき、以来お詫びとして浜にイカが打ち上がるようになったという伝説もある。
イカ寄せの浜に面して、由良比女神社がある。別の伝説では、元々、知夫里島の古海に鎮座していた由良比女神社が浦郷に遷されてから、知夫里島にはイカが寄らなくなったと伝えられる。また、由良比女命が神武天皇の時代に、イカを手に持ち、芋桶に乗って神社の鳥居の近くの畳石に現れたという伝説もある。昭和12年(1937)建立の明神鳥居・一の鳥居の先には随身門が建ち、右手には土俵がある。鳥居脇の狛犬は大正4年(1915)建立の来待石の出雲尾立。
随身門の先には二の鳥居が建ち、その奥に由良比女神社の社殿が構えている。鳥居の影で見にくいが、昭和12年(1937)建立の左の石燈籠の下段の枡形には烏賊が舞う彫刻が施されている。
満開の桜の花に囲まれた由良比女神社は、式内社(名神大社)で、祭神は由良比女命である。この祭神の名は全国でもこの神社だけといわれる。水若酢神社の水若酢命、玉若酢命神社の玉若酢命など、隠岐諸島の神社には他の地域に知られていない固有の神が多く、古代日本を知る鍵が多く秘められている。『延喜式神名帳』では、元は和多須神と記され、海童神あるいは須世理比売命ともいわれる。海童(わたつみ=海神、綿津見=和多都美)とは、海の神で、伊邪那岐神が死の国の穢れを祓うため禊した時に生まれた綿津見三神がよく知られる。須世理比売は、須佐之男命の娘で、大国主命の正妻である。『袖中抄』には「わたす宮」とあり、平安時代の仁明天皇・陽成天皇の代に祈祷が行われたことが記されている。『土佐日記』には「ちぶり神」とある。創建は不詳だが、『続日本後紀』承和9年(842)条にて、由良比女命神(由良比女神社)・宇受加命神(中ノ島の宇受加命神社)・水若酢命神(島後の水若酢神社)の3社が官社に預かる旨が記されている。拝殿の建立年は不明だが、昭和6年(1931)に改築されている。唐破風向拝付入母屋造銅板葺で重厚な造りである。
平安末期には島後の水若酢神社とともに隠岐国一宮と定められ、安永2年(1773)には島前一統の祭とすることを決議している。特殊神事として11月29日夜の神帰祭が知られる。由良比女神が出雲の神在祭に出た後、イカに乗って帰る夜の神迎え神事である。この夜は必ず由良の浜にイカの群れが寄るといわれ、氏子はこれを「烏賊寄せ祭」と称している。また例大祭では隔年で海上渡御祭が行われ、数百人で担ぐ威勢の良さは島内一の船渡御といわれる。
軒唐破風付銅板葺の向拝は、二重虹梁を巡る3匹の龍の表情豊かな彫刻が目を瞠る出来栄えである。とりわけ正面の波間に浮かぶ龍、両端の木鼻の阿吽の龍は珍しい。蟇股の波や兎の毛通しの朱雀?など趣向を凝らしている。注連縄の奥の拝殿扉上部には烏賊が集まる様子が彫られている。