半坪ビオトープの日記

焼火(たくひ)神社

隠岐の黒曜石
泊まったホテルのロビーに真っ黒な黒曜石が展示されていた。隠岐の黒曜石は、はるか3万年前から中国地方を中心に新潟や四国地方に運ばれており、旧石器時代から石器の材料として利用されていた。隠岐の黒曜石は、遠くはウラジオスクまで運ばれている。

焼火(たくひ)神社

隠岐二日目は、島後・隠岐の島町の西郷港から島前・西ノ島町別府港まで船で渡った。島の中央より少し西の浦郷港より、急いで代表的な景勝地・国賀海岸を巡る遊覧船に乗る予定だったが、天気は良いが海が荒れているようで、残念ながら欠航となっていた。仕方なく午後に予定していた焼火神社に向かった。島前の最高峰・焼火山(452m)の中腹(300m)にある神社には、ジグザグの道を車で上って、駐車場からも歩いて15分ほどかかる。駐車場から200mほど登ると鋼製の鳥居が建っている。左は展望台、右が焼火神社に分かれる。

ヤブツバキ
このあたりは島前でも見かけた青紫色のタチツボスミレの花がたくさん咲いていたが、駐車場から展望台までの道は椿の路と呼ばれ、ヤブツバキの赤い花が目立つ。

キブシ

焼火神社の神域約4haには貴重な植生が集中的に残っていて、神域植物群は、島根県の天然記念物に指定されている。特に境内の巨木の老杉群、セッコク、フウラン、トウテイラン、シダ類のタクヒデンダなどの植物。特にタクヒデンダはこの島にしか産せず、トウテイランは隠岐以外では因幡と丹後にしか産しない貴重種である。参道周辺のチョウジガマズミ、ヨコグラノキ、トキワイカリソウ、タイトゴメなど本土側ではほとんど見られない植物もある。この花は、キブシ(Stachyurus praecox)という落葉低木。主に本州、四国、九州の山地にごく普通に生え、高さは3〜5mになる。4月頃、葉の出る前に淡黄緑色の穂状花序を多数垂らし、鐘形の花を開く。

小さな境内社

途中の参道沿いに、古ぼけた木造鳥居と小さな境内社があったが、詳細は不明である。

長い石段の上に小さな流造の境内社
やがて苔むした長い石段の上に小さな流造の境内社が見えた。

唐破風付流造の境内社
かなり古くなっているが、唐破風付流造の本殿様式の社殿は、本格的な建築様式となっている。江戸時代には大いに賑わっていたといい、境内社としては、明治までの本尊であった地蔵菩薩を祀る雲上宮の他、山神社、弁天社、船玉、東照宮、五郎王子、金重郎、道祖神があるというが、この社殿がどれであるかは不明である。

唐破風付流造の境内社
細かく見ると、虹梁・木鼻・海老虹梁・組物・妻飾り・笈形などの各所に彫刻も施され、全体の規模は小さいながら重厚な作りとなっている。
 

焼火(たくひ)神社の社殿
マムシに注意!」との警告がある社務所の大きな石垣を回り込んで、もう少し境内を進むとようやく、崖を利用した焼火(たくひ)神社の社殿が姿を現した。日本海の船人に航海安全の神として平安時代から信仰を集めてきた神社。創建は承和5年(838)より前で、隠岐最古といわれる。旧暦1230日の夜(大晦日)、海上から火が三つ浮かび上がり、その火が現在社殿のある巌窟に入ったのが焼火権現の縁起とされ、現在でもその日には龍灯祭という神事が行われている。承久3年(1221)、隠岐に配流された後鳥羽上皇が航海中に遭難しかけた際、御神火に導かれて難を逃れたそうで、その後、焼火山に雲上寺を創建し、焼火権現・雲上寺として神仏習合の形態を取っていたという。また、旧正月の五日から島前の各集落が各々火を選んでお参りする「初参り」が伝承されている。江戸時代には北前船の入港により広く知られ、日本各地に焼火権現の末社が点在している。江戸時代には、安藤広重の「六十余州名所図絵:隠岐・焚火ノ社」や葛飾北斎の版画「北斎漫画」の「諸国名所絵:隠岐・焚火ノ社」に焼火権現が描かれている。焼火権現は航海安全の守護神・焼火大神と比奈麻治比売命を合祀したもので焼火大権現ともいう。比奈麻治比売命は西ノ町の東北端近くにある比奈麻治比売命神社の祭神で、その神社は延暦18年(799)に隠岐国最初の官社となっている。後でそこも訪れる。

焼火神社の拝殿
本殿は享保17年(1732)に建設されたものであり、現在、拝殿と共に隠岐島の社殿では最古の建築とされている。文化財建造物保存技術協会によると、一間社流造、正面軒唐破風付、正面通殿間庇、片流れ、東側面唐破風造、銅板葺。当時としては画期的な建築方法で、大坂の大工・鳥居甚兵衛により大坂で基本的な木造りをし、米子の大工が現地で組み立てた。今でいうプレハブの走りとでもいえる。平成4年には国の重要文化財に指定された。城を偲ばせるほど広大な石垣の上に建設された社務所では、旧正月の年籠りの時には千人ほどの参詣人が火を持ちながら屯したり、江戸時代には巡見使が400人以上の家来を率いて参拝したとの記録も残っていて、現在は客殿という場所にその名残をとどめている。文化財建造物保存技術協会によると、拝殿は延宝元年(1673)建設で、桁行四間、梁間三間、入母屋造妻入、向拝一間、軒唐破風付銅板葺で、本殿より古い。拝殿と本殿の間にある通殿は、桁行二間、梁間一間、一重、唐破風造平入り、銅板葺で、明治35年(1902)の建設である。明治時代、焼火神社宮司・松浦斌(さかる)は、私財を投じて隠岐と本土を結ぶ隠岐汽船の開設に尽力した。そのため隠岐汽船のマークは、焼火神社の神門と同じ三つ火紋である。

焼火神社の本殿

明治の神仏分離廃仏毀釈以前の江戸期には、大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)を祀る焼火山雲上寺という寺で、『島前村々神名記』には「手力雄命左陽、万幡姫命右陰」とあり、伊勢神宮皇大神宮と同様の3座だったが、明治以降、大日孁貴命を祭神とする焼火神社となった。『隠岐島の伝説』によると、天鈿女命を従えた天照大神は、西ノ島の最西端・三度の「鯛の鼻」の北にある「大神」という海の「立島」に降臨した。やがて三度湾の南の長尾鼻にある生石島に上陸した。そこで人影を見かけたので三度も探したため、三度という地名になった。人影は何回もお迎えに出ていた猿田彦命の姿だった。大神は鎮まる場所を探して手紙を書いて空に投げ上げたところ、二羽の烏が口に咥えて焼火山を目指して飛んでいった。焼火山の神は手紙を神勅と受け止め大宮所を選定した。猿田彦命と天鈿女命は天照大神を焼火山の大宮所にお連れした。こうして焼火山は大神を祀ることになったという。日本書紀には大日孁貴命が本文に出てくる本名で、天照大神は一書にてようやく出てくる別名であるから、大日孁貴命が祭神であるのは本来の姿と思われる。

本殿左手前の境内社
本殿の左手前の藪の中にも境内社らしき社殿が見つけられたが、マムシに注意の警告が頭をよぎり、近づくことを躊躇わせた。正面には龍らしき彫刻が見られるので、龍蛇社だと思うのだが、残念ながら確かめられない。

キケマン
社殿脇の斜面にまたコミヤマカタバミが白い花を咲かせているのを見つけた。こちらの黄色い花はキケマン(Corydalis heterocarpa var. japonica)という越年草。関東以西〜沖縄の道端に生える。花は総状花序につき、長さ15-20mm。花期は4〜5月。似た花に、ミヤマキケマンやツクシキケマンがある。

眼下に弁天鼻
展望台より西を眺めると眼下に弁天鼻が認められる。その手前の波止集落にある焼火神社の鳥居近くに艫戸(ともど)という刳舟が保存されている。一艘のみ残存する貴重な民俗文化財である。焼火山は古くは大山と呼ばれ、北麓には式内社大山神社(祭神:大山祇命)がある。南東麓には、源頼朝に仕えた真言宗の高僧・文覚上人が頼朝の死後に流されて居住したと伝える文覚窟がある。墓所知夫村の天神山山頂にある。島前(とうぜん)は、630530万年前の火山活動で形成された、西ノ島、中ノ島、知夫里島により囲まれた島前カルデラ(火山性の陥没地形)で形作られているが、その中央火口が西ノ島町の焼火山である。

ダイセンミツバツツジ
こちらの鮮やかなピンク色の花は、ダイセンミツバツツジRhododendron lagopus)という落葉低木であろう。葉が出ないうちに花が咲く。隠岐はダイセンミツバツツジの分布圏内にあるが、日本海側に分布するユキグニミツバツツジも相当混じっているともいわれる。また、島根県天然記念物に指定されている焼火神社神域植物群では、九州にしか分布しないというサイゴクミツバツツジが見られるという。ミツバツツジの同定は極めて難しく素人には無理である。