一昨年の対馬、昨夏の壱岐に続き、今年の4月には隠岐の島を訪れた。いずれも、日本海に浮かぶ島で、古い歴史に包まれていて興味が尽きない。旧石器時代の黒曜石の産地でもあった隠岐の島には縄文遺跡もあり、古墳時代には300基以上の古墳が築かれたという。神社も150座以上あると伝わり、延喜式神名帳に記載された神社も16座あり、そのうち伊勢命神社・水若酢神社・宇受賀命神社・由良比女神社の4座が大社である。島根の本土側では出雲大社と熊野大社の2座だけであることを鑑みても、当時の隠岐の重要性が窺える。なおかつ名のある神社がたくさん現在も実質的に機能していることが注目される。出雲空港を経由して隠岐空港に着き、すぐさま島後(隠岐の島町)を北西に向かい、島の北西部の玄関港である五箇の中心部にある、水若酢神社を訪れた。ここも名神大社の一つである。これが金属製の一の鳥居。
一の鳥居の奥に木製の二の鳥居が建ち、その先に随神門が建つ。水若酢神社の由緒に関する古文書のほとんどが中世期に兵火等で失われて、創建は不詳である。現在地は江戸時代前期の延宝6年(1678)以来の鎮座とされる。その際の鎮座地の選定は、神獣の白鷺が当地の松に止まったことによるといい、二の鳥居付近に「明神の松」が生育していたが、昭和46年(1971)に枯死している。
随神門は文化8年(1811)の造営になる。その両側には瑞垣が巡らされ、水若酢神社の社殿を守っている。
『続日本後紀』承和9年(842)条に、由良比女命神・宇受加命神・水若酢命神の3社が官社に預かる旨が記されている。延長5年(927)成立の延喜式神名帳では、隠岐国穏地郡に「水若酢命神社明神大」と記載されている。享禄3年(1530)の資料に一宮の初見として、隠岐国一宮の位置付けにあったとされる。
本殿手前に建てられている拝殿は、大正元年(1912)の造営。
拝殿横には大きな鬼板が保存されていた。昔の本殿の千木の前に飾る鬼板という。
水若酢神社の主祭神は水若酢命で、配祀神は中言命(なかごとのみこと)と鈴御前。水若酢命神は記紀に見えない地方神で、配祀神とともに由緒は不明である。言い伝えでは、隠岐国の国土開発と日本海鎮護の任務に就かれた神とされる。『隠州記』(貞享5年(1688))の伝承では、崇神天皇の時に神が海中から伊後の地に上がり、白鳩2羽に乗って遷座したとする。隠岐島の伝承では、白鷺によって神が伊後から棒羽山などを経て山田村、一宮村宮原と移り、さらに江戸時代の洪水の際に現社地の郡村犬町に遷座したとする。
本殿は江戸時代の寛政7年(1795)の造営で、高さは約16m。身舎(もや)は切妻造妻入で、桁行2間、梁間3間の大規模な建築。屋根は茅葺で、棟には千木・鰹木を置き、身舎前面には片流れ・栃葺の庇を付す。身舎内部は前1間を外陣、後1間を内陣とし、ともに畳敷で、内陣奥に神体を納める厨子が安置されている。この本殿は「隠岐造」と称される独特な神社建築様式で、その造営に係る棟札・普請文書もよく保存されていて、本殿及び棟札・普請文書は国の重要文化財に指定されている。
水若酢神社本殿と同様の隠岐造の建物は、玉若酢神社本殿、伊勢命神社本殿、などでも知られ、1間四方の小規模な隠岐造の社殿は隠岐諸島の各地に伝わる。妻飾りの大瓶束と二重虹梁の周りの意匠が極めて立体的に構成されていて興味深い。虹梁の下部には鯉の彫刻が認められる。建築当初はさぞや鮮やかに彩られていたであろうと推測するのが楽しい。例大祭として、隔年に催される祭礼風流が知られる。「蓬莱山」と呼ばれる山車を御旅所まで曳く「山曳き神事」や、御旅所で巫女舞・一番立・獅子舞・大楽・流鏑馬といった各種神事が催される。「山曳き神事」は、社殿流出に伴う再建時の用材曳きに由来するといわれる。この祭礼風流は、「隠岐三大祭」の一つに数えられるほか、島根県指定無形民俗文化財に指定されている。