半坪ビオトープの日記

都農神社、本殿


都農神社の創祀は不詳だが、社伝によれば、神武天皇即位の6年前、天皇が東征に向かう際に鎮祭したことに始まるという。また神功皇后三韓征伐に際して舟の守護神として「吐乃大明神」を勧請したとの『塵添壒囊抄』の記事を引用して、皇后が凱旋後に社殿を造営したのが始まりであると伝えている。『続日本後紀』によれば、承和4年(837)に官社に列し、承和10年に従五位下が授けられた。天文18年(1549)には伊東義祐によって社殿が造替され、その後天正6年(1578)大友宗麟による日向侵入の兵火に罹って社殿を始め、社宝、古文書類を悉く焼失してから次第に衰退した。元禄5年(1692)に高鍋藩主・秋月種政によって再興されるとともに、元禄14年(1701)に社領20石が寄進されて以来、江戸時代を通じて歴代高鍋藩主から崇敬された。秋月種美による元文元年(1736)の社殿造営と延享2年(1745)の鳥居造営、安政6年(1859)の秋月種殷による社殿造営が行われた。

拝殿は平成19年の再建。正面5間側面3間平入の入母屋造で、背面中央に奥行2間の切妻造妻入の幣殿を付ける。屋根は銅板葺で、正面に千鳥破風を架し、その下に縋破風で中央1間に軒唐破風を構えた3間の向拝を付加している。

社殿のすぐ左手に西神池がある。錦鯉が泳ぎ、睡蓮が咲く池を中心に、日本庭園風に手入れが行き届いている。左奥には多目的施設・竹柏亭が建っている。茶室のほか写経にも使えるという。

社殿の左に回り込むと、拝殿の後ろに続く本殿がよく見える。本殿は、平成19年に再建された1間社流造銅板葺で、ほぼ旧本殿の造形を踏襲している。棟に千木・鰹木を置くが、千木は破風や垂木が棟に突き出した本来の千木ではなく、棟の上に乗せた交差型の置千木である。懸魚の意匠も変化に富み、鰭も複雑に彫刻されて興味深い。旧本殿は安政6年に河野喜之助の寄進により再建されたもので、現在は移築されて末社熊野神社本殿となっている。

蟇股には珍しく木の葉にネズミが彫られている。祭神の大己貴命素戔嗚尊の元で修行中のある日、火攻めに遭い、もはやこれまでと観念した時に、地面から出てきた鼠が、「足元を踏んでごらんなさい」と言ったので、踏むとぽっかり穴が開き難を逃れた。神の使いの鼠として信仰が篤いという。

小羽目の透かし彫りも波に亀など意匠が凝っている。

軒下欄間の彫刻にも様々な鳥の姿が見られ、彫り師の意気込みが感じられる。

本殿の裏手左には、摂社の素戔嗚神社が鎮座し、祭神として素戔嗚命を祀っている。

本殿の裏手右には、摂社の足摩乳神社と手摩乳神社2社が1宇に鎮座している。それぞれ足摩乳命および手摩乳命を祀っている。足摩乳命および手摩乳命は櫛名田比売命の両親で、娘が八岐大蛇に人身御供になるところを素戔嗚命に助けてもらった話が『記紀神話』にある。

本殿の右手に少し離れて、末社熊野神社が鎮座している。社殿は本社の旧本殿であり、立派な造りである。祭神として速玉男命、事解男命、菊理比売命を祀っている。

社殿を改めて横から眺めると、大きな向拝を突き出した大きめの拝殿の後ろに、こじんまりとした本殿が腰高に設えられているのが見て取れる。

都農神社の境内の右手に、末社の稲荷神社が赤い鳥居を連ねている。祭神は宇加之御魂命である。