半坪ビオトープの日記


兎川寺の向かいにある旧山辺学校は、明治初期の旧制の学校で、洋風八角高楼付校舎は現在、歴史民俗資料館となっている。立石清重の指揮の下で開智学校建築にも携わった経験のある、地元出身の佐々木喜十が棟梁となり、明治18年に建てられた。開智学校のギヤマン校舎に対し、障子学校と呼ばれた和洋両様の建築様式を取り入れている。入母屋瓦葺漆喰壁障子窓の和風、八角高楼連窓の洋風に、千鳥破風玄関と両折桟唐戸扉の社寺風もある。明治19年の開校以来、昭和3年まで学校として使用され、以後、村役場、保育園、市役所出張所として使用された。

江戸時代の家塾・寺子屋の頃から教育に熱心だった当地に、明治6年に兎川学校ができ、開智学校より10年後に里山辺・入山辺2村の協力で建築された。費用は開智学校の七分の一といわれ、質素である。校舎内には学制の変遷、当時の教科書や裁縫の見本などの教育関係の資料がたくさん展示されている。

寺子屋時代の勉強道具などかなり古いものも集められている。これは明治41年頃に製作されたヤマハ製のオルガンで、現在でも演奏することができるそうだ。

山辺地区一帯で出土した縄文時代から平安時代に至る土器・石器及び遺跡地図も展示されている。特に針塚遺跡出土の弥生時代の大きな壺や瓶は、松本平では貴重な資料である。

山辺地区で見られる道祖神の案内図とともに、そのレプリカと思われる道祖神もいくつか並べられていて微笑ましい。山辺地区だけでも約70体の道祖神があるという。

民俗行事関係の展示品も多く、これは毎年2月8日の「事八日」という厄払いの行事に使う、わら馬、むかで、龍である。わら馬には藁人形の疫病神が乗せられ、村はずれの河原まで引き回された後、焼かれるそうだ。

龍の手前にある杉の葉で作られた青山様の神輿には、青山大明神と書かれた鳥居も祀られている。青山様とは、江戸時代末期頃から松本平で行われているお盆の子供行事で、男の子の行事である。

里山辺からさらに東の入山辺桐原にあった、旧海岸寺の木像千手観音立像の写真も興味深い。像高157cm、通形の四十二臂の千手観音である。平安時代中期の作であり、松本市内最古に属する仏像といわれる。