半坪ビオトープの日記

岩井廃寺塔跡、岩井温泉


御湯神社の参道である長い石段の手前右側には広大な広場があり、その奥に大きな建物が建っている。旧岩井小学校の体育館である。今は避難所、広域避難場所となっていて、収容人数は2,990人という。これは体育館だが、岩井温泉街の西南にある旧校舎は、明治25年に建築された小学校校舎で、鳥取県に今でも残る最古の校舎であり、最古の洋風学校建築である。町の保護文化財に指定されているが保存状態はかなり悪いという。

旧体育館のある岩井小学校跡地の学校玄関前に、岩井廃寺「弥勒寺」塔跡がある。弥勒寺は約1,200年前の白鳳期に創建されたもので、礎石は三重塔の心礎石であり、古くより「鬼の碗」と呼ばれている。この礎石は横3.63m、縦2.36mと日本最大級のもので、新羅形式の方形造出舎利容器を納入する二重円孔を持ち、単弁八葉や12葉、また16葉の蓮華紋軒丸瓦が出土するなど、白鳳期寺院の特徴を示し、寺院修築の年代を明示している。

推定では向かって左側に瓦葺きの金堂、右に塔をもつ法起寺式伽藍配置の寺院があった。方1町(108m)にわたり南を正面として赤い柱、緑の窓に彩られていた。庶民の草葺き、半地下的な竪穴住居とは余りにかけ離れた異国的な姿である。当時、こうした寺を建立したのは、1郡を支配する郡司級の地方豪族である。

岩井温泉は古くは「蒲生湯」「銀湯」「島根ノ御湯」と呼ばれていた。岩井温泉街の北側には蒲生川が西(左)に流れて日本海に注いでいる。対岸の山麓の宇治には曹洞宗長安寺があり、境内には鎌倉時代末期様式の宝篋印塔がある。伝承では豊臣政権下巨濃1万石余りの大名垣屋隠岐守恒総の供養塔という。宇治は山城石清水八幡宮領宇治庄の故地であるが、この荘園は巨濃別宮領にちなむといわれる。

岩井温泉は、9世紀初頭、文徳天皇の外祖父藤原冬嗣の子孫:冬久(宇治長者)が神女の教えにより発見し、難病を癒したとされる、山陰最古の温泉地である。平安時代の「八古湯」の一つに数えられる。鎌倉時代の末期には、正中の変元弘の乱に伴う争乱によって温泉は廃れたという。

江戸時代になり鳥取藩初代藩主・池田光仲が温泉を再興し、江戸時代半ばの寛政期には16軒の旅籠が並び、藩主専用のものも含め8ヶ所の温泉があった。この花屋旅館も約250年の歴史があるという。

この木造3階建ての和風旅館は、創業300年を誇る明石家旅館で、文豪・島崎藤村も投宿したとして知られ、庭園にある露天風呂は風情満点という。

こちらは岩美町立の共同浴場・ゆかむり温泉である。岩井周辺で「風呂」といえばこの共同浴場のことを指し、310円で楽しめる。

岩井温泉には「ゆかむり」という独特の入浴法が伝えられている。湯治の際に手ぬぐいを頭に被り、専用の柄杓でポカポカと湯を叩きながら汲んでは頭に湯をかぶるというもので、江戸時代末期から始まったとされる。この時、調子を取るために歌われるのが「湯かむり唄」で、「岩井八景づくし」とか「忠臣蔵づくし」などの数え歌がある。島崎藤村も『山陰土産』の中で言及しているそうだ。

岩井温泉周辺の伝統行事としては、送り盆の夜に行われる蒲生川での灯籠流し、雨乞い行事に起源を持つ鳥取県東部の芸能「因幡の傘踊り」、湯かむり歌踊などがある。