半坪ビオトープの日記


松本市東部の里山辺に兎川寺(とせんじ)がある。真言宗智山派で、詳しくは恵日高照山兎川霊瑞寺という。
寺伝によれば今から約1300年前の飛鳥時代聖徳太子により創建されたと伝わる。もしそれが事実とすれば、先ほどの針塚古墳などの古墳時代からの流れと関連があると思われる。

中世には天台宗真言宗合わせて24坊からなる大伽藍があって、隆盛を誇った。空海が瑠璃光仏を刻し、最澄が千手観音を奉納したとも伝わる。1332年の北条氏の反逆に対し、全国の天台僧徒が比叡山に集まった際、当寺の天台僧徒もこれに従い、全員が武器を持ち参加したが、帰るものは一人もいなかった。このため天台12坊は廃墟と化し、以来真言のみになった。戦国時代、武田信玄が大兵を持ち小笠原氏の林城を陥れるに及び、小笠原氏の祈願寺になっていた当寺は、暴徒の侵略により仏像をはじめ多くの寺宝が持ち去られた。
1618年、時の住職憲俊により高野山龍光院に所属することになる。江戸時代には、松本藩主となった石川数正が庇護し境内が整備された。明治時代初期には戸田光則が全国にも例を見ない廃仏毀釈を断行したため廃寺となり、その後は兎川学校(後の山辺学校)として利用された。のち壇信徒の篤い信仰により再建された。本堂は、文政3年(1820)諏訪の宮大工藤森広八包近により建造された。向拝や木鼻の彫刻は、生き生きとしている。

本尊は、千手観音であり、脇立は不動明王毘沙門天である。

本堂正面の左手前の高さが156cmある石仏は、正徳5年(1715)信者の寄進によるもので、松本平で最大級の石仏聖観音といわれている。右隣に立つ小さな聖観音像は、それよりも古い年代のものと思われる。

本堂の左手には墓地があるが、その手前に松本城天守閣を構築した松本藩主石川数正夫妻の供養塔がある。

境内社として、小さな蚕影神社(こかげじんじゃ)がある。蚕影神社は、日本の絹の発祥の地といわれる筑波にある養蚕の神を祀る神社であり、そこから勧請したものと思われる。金色姫伝説が残り、「蚕影山神社」や「蠶影神社」などとも呼ばれている。蠶は、蚕の旧字体である。

本堂右手前の枝垂れ桜はみごとに咲くので人気があり、ライトアップもされるそうだ。