半坪ビオトープの日記


松本の筑摩神社から南へ500mほどのところに若宮八幡神社がある。朱色の両部鳥居はあるが、近くの人が集まる集会所の一角にある感じである。

この辺りは旧町名、三才といって、その由来には、優れた三人の才能ある人物が諸災害を治めたという説、筑摩郡に国府があったことから風の祝(台風を治める神職)がいて三年毎に交代したこと、御射(みさ)の神事の地によるとの説などがある。

拝殿の後ろに柵で囲まれた本殿と神木がある。この小さな若宮八幡社本殿は、一間社流造の杮葺きの簡素な桃山時代の建築である。元は松本城本丸の大堀の中の島に祀られた松本城鎮守若宮八幡社の社殿であったが、寛文10年(1670)に水野忠直がもらい受け、解体せずにこの地に移されたという。城内鎮座の社殿の中で江戸時代以前のものは全国的に見ても他に例を見ないので、小規模ながらその価値は高く、国の重文に指定されている。本殿の右手には、これまた小さな境内社が二つ祀られていた。

松本平の東部の山辺の里には道祖神が多く残されている。山辺に向かう途中の道端に道祖神ではないが石造物があった。慈眼寺聖観音という高さ141cmの石仏で、文化3年(1816)に造られたものである。真言宗だった慈眼寺が明治の廃寺に追い込まれるまでは、寺の裏山に位置する林城の前峰の観音堂に12体の仏像と共に奉られていたが、その後当地に奉られた。長頭の姿が微笑ましく、地元の人々の信仰も篤いという。

山辺の里近くの水田が広がる一角に、針塚古墳があった。この薄川流域には昔から多くの古墳が分布していたが、開発により多くが消失し、市内唯一の積石塚古墳となった。
5世紀後半の積石塚と推測され、石をもって墳丘を造った高句麗に多い墓制であることから、渡来人との関係が指摘されている。

里山辺地区は美ヶ原山塊から流れ出る薄川が形成した扇状地にあり、西方には松本平が望まれる。
幅2mの周溝を巡らした円墳で、直径約20m、高さ約2mである。墳頂部に2×1mの竪穴式石室、東側周溝内に2×0.35mの竪穴式石室、東南側周溝内に木簡墓が発見されている。副葬品としては、内行花文鏡、鉄斧、鉄鏃のほか、刀子、ガラス玉、鉸具(かこ)などが出土、周溝内から土師器、須恵器がまとまって見つかっている。