半坪ビオトープの日記

成島八幡神社


堂森善光寺米沢市街地の南東にあるが、正反対の北西の外れに、米沢で最も古い由緒を伝える成島八幡神社がある。鬼面川西岸の丘陵上に位置し、成島八幡宮ともいう。鳥居の先には小さな社が祀られているが、参道はその前を左に曲がって伸びている。

境内は鬱蒼と茂る杉の巨木に囲まれていて、石畳の参道の先に延々と続く石段をひたすら上っていく。

ようやくたどり着いた高台が広くなっていて、その境内の奥にひっそりと厳かな拝殿が建っている。

蝦夷討伐のためにこの地に下ってきた大伴駿河麿が宇佐神宮に念じて勝ったため、勅命を得て宝亀8年(777)に建立されたといわれ、平安時代には成島荘の鎮守として崇拝された。最初に社殿を造営したのは坂上田村麻呂であるという伝説もある。源義家は、永保元年(1081)に社領を寄進した。
同社に納められた棟札によれば、正安2年(1300)に長井荘(置賜地方)の地頭・長井宗秀によって宝殿などが修理され、その後、永徳3年(1383)に伊達宗遠によって拝殿が造営され、何度か修理されたがこれが現在残っている拝殿である。

社殿造営・修理の棟札46枚のほか、平安時代後期作と考えられている木造門神座像2体や舞楽面などが伝わっている。

現在の本殿は、承応3年(1654)に米沢藩主・上杉綱勝によって造営された。当神社は歴代の領主に手厚く保護されてきたが、特に伊達氏の崇拝は篤く、伊達政宗が仙台に拠点を移した際は、城下に建立した大崎八幡宮(国宝)に成島八幡神社も分霊した。ちなみに政宗重臣片倉景綱は成島八幡神社の神官の子である。祭神として誉田別尊八幡神)を祀る。

境内の北側と西側は高さ約2mの土塁で囲まれており、その外側には空堀の跡が見られる。拝殿の右側には、鐘楼堂が建っている。明治初期の廃仏毀釈までは日本中で神仏習合が進み、神社には神宮寺が付設されることが多かったが、廃仏毀釈で神宮寺の多くは破壊された。神社に残る鐘楼堂は、その名残といえる。

境内の西側には虎口の跡と思われる遺構も残されているなど、当神社が中世城館の特徴を持っていたことが窺われる。本殿の裏手には、小さな社や石祠がいくつかあるが、詳細は分からない。

本殿の右手には、若宮八幡宮が祀られている。
これで、9月下旬の西吾妻山の山歩きと米沢周辺の史跡巡りを終えた。