半坪ビオトープの日記

大生神社、斎殿


本殿の左手に奇怪な姿をしたカゴノキ(鹿子の木)があった。茨城県桜川市の稲村神社で12月に見かけた木と同じである。

斎殿の前には、かなり大きな御神木が高く聳えていた。三間社流造向拝三間の斎殿は、寛政2年(1790)の建立で、市の有形文化財に指定されている。

大生神社の鳥居の手前左側に、松和稲荷大明神が祀られている。近くの碑によると、和銅4年(711)秦伊呂具(いろこ)が餅を的にして矢を射たところ、その餅が鳥となって稲荷塚の松の梢に飛んできて止まった。稲荷塚とは近くの前方後円墳である。村人はその墳丘の上に祠を築いて松和稲荷として祀った。その後明治政府の神社統制によって、「オフ」一族の総鎮守である大生神社の境内に移されたそうだ。この「オフ」一族が、太、飯富とも記される多氏のことと考えられている。

参道を挟んで反対側にも小さな祠がいくつも並んでいて、粗末な社らしき建物もあった。

長い参道の中程に立つ灯籠も、香取神宮でも見かけた三つ穴灯籠だった。

こちらの三つ穴灯籠には、大生大神宮と彫られていた。

大生古墳群は、大生神社の周辺に点在する。古墳の集中状態から大生東部古墳群、大生西部古墳群、カメ森古墳群、田ノ森古墳群の4つに大別されるという。大生東部古墳群は、稲荷塚古墳、大生殿塚古墳などの前方後円墳、方墳、円墳などから構成される。一方、大生西部古墳群は、子子舞塚古墳、鹿見塚古墳、天神塚古墳、白幡八幡塚古墳など前方後円墳、円墳から構成される。大生原台地全体では100基を越える古墳があるという。

大生東部古墳群の現地案内板によると、畑の中に盛り上がった墳丘は、白幡八幡塚古墳とされるが、県の遺跡地図では西部古墳群に含まれている。これらの古墳群は、古墳時代中期(5世紀頃)の築造と推定され、被葬者はオフ一族と関係があることが分かっている。
先ほど触れた大和の多神社近くの多遺跡からは、弥生時代初期の祭祀土器がたくさん出土したという。