半坪ビオトープの日記

大生神社、拝殿


潮来市北部の北浦の近くに大生神社がある。大生神社の氏子達は、鹿島神宮はここから移されたと信じ、「元鹿島」の名で大生神社を呼んでいて、「鹿島の本宮」ともいわれる。説明板には、古く大和の国の飯富族が常陸の国に移住した際、氏神として奉遷して祭祀したのに始まると紹介している。

大和の多神社(正式には、多坐弥志理都比古=おおにいますみしりつひこ神社という)の祭神は、神八井耳命(かむやいみみのみこと=みしりつひこ)であり、常陸国風土記には神八井耳命の子孫である建借間命(たけかしまのみこと)が常陸の国栖を征圧したとあるので、多氏一族が移住してきたことは確かと思われる。建借間命は、麻賀多神社創始者で印波国造だった伊都許利命(多一族)の2代前にあたり、さらに建借間命を祭神としている大井神社の地名は水戸市飯富町(=オフ=多)と関連している。

この後の古墳のところで触れるが、大生神社が鎮座する大地には、前方後円墳を含む100基以上の古墳があり、大和の多神社の鎮座する土地にも弥生時代の集落遺跡がある。

祭神として武甕槌大神タケミカヅチノオオカミ)を祀っている。この神は経津主大神(フツヌシノオオカミ)とともに高天原から下界に下され、大国主命オオクニヌシノミコト)に国譲りを強要した武神である。現在、タケミカヅチノオオカミは鹿島神宮の主神として、フツヌシノオオカミは香取神宮の主神として祀られている。大和から来た多氏の祭神が、鹿島神宮武甕槌神氏神とする中臣氏(藤原氏)の勢力拡大によって、大生神社の祭神も武甕槌神に変わったと考えられている。ちなみに中臣氏は古代に祭祀を司る氏族で、仏教受入問題による物部氏とともに蘇我氏の圧迫を受け一時は衰退したが、大化の改新によって復活を遂げた氏族である。

本殿は、天正18年(1590)の棟札があって、その時の建立と伝えられる3間社流造で、間口約6m、奥行約7mであり、屋根は茅葺きだがそのままの形を銅板で覆われている。地方社殿としては大きく荘厳にして、当地方最古社でその時代の特徴をよく示していて、県指定の文化財である。毎年秋の例大祭で奉納される巫女舞神事は、県指定の無形文化財である。

本殿の後ろにはいくつかの小祠が祀られている。この石碑には、加波山筑波山・足尾山神社が祀られている。