半坪ビオトープの日記

仁科神明宮宝物庫、穂高神社本宮

仁科神明宮歴史展示館
仁科神明宮三の鳥居の手前左手には宝物収蔵庫、右手には無料の歴史展示館が建っている。平安時代後期、現在の大町市社には伊勢神宮の荘園である仁科御厨(みくりや)があった。御厨を支配していた御厨の司が仁科氏で、伊勢神宮内宮を勧請して仁科神明宮を祀り、都の文化を取り入れた。仁科神明宮は伊勢神宮に倣い20年毎に本殿などの建替え(式年造替)を行ってきたが、仁科氏が滅亡した後、寛永13年(1636)を最後に部分的修理のみを行ってきた結果、伝統的な神明造の古い様式が残り、本殿・中門・釣屋が国宝に指定された。歴史展示館では、御厨や神明宮の歴史、仁科氏の関わりなどを資料展示している。

古式作始めの神事
伊勢神宮祈年祭に倣って、春の耕作始めに五穀豊穣を祈るのが仁科新三重宮の「古式作始めの神事」である。神楽殿の床を水田に見立て、鍬初から苗代づくり、種蒔、鳥追いまでの農作業を演じるもので、これは馬鍬掻きの場面。明治4年に廃止されたが、明治26年に復興された。現在、県の無形民俗文化財に指定されている。例祭では
太々神楽の奉納がある。

宝物収蔵庫、御正体
三の鳥居の左手に建つ宝物収蔵庫には、重文の御正体や棟札などが収蔵展示されている。神仏混合の考えでは、仏菩薩が日本に生まれ変わって神になったといわれ、神の本地(ほんじ、正体)を仏にあてている。神社を象徴する鏡形の檜材を銅板で覆ったものに、本地仏にあたる仏像をつけ、神社の拝殿扉にかけて礼拝することが行われた。これを御正体(みしょうたい)とも懸仏ともいう。仁科神明宮には銅製御正体が16面保存されているが、手彫りのもの1面と鋳造のもの11面は鎌倉時代の作で、打ち出しのもの四面は室町時代の作とされる。銘文のあるものが2面あり、弘安元年(1278)、弘安9年と記されている。5面が国の重要文化財に指定されている。

造営棟札
仁科神明宮は本殿・中門・釣屋の国宝で有名だが、式年遷宮祭でも知られる。伊勢の皇太神宮に倣い20年毎に社殿の造営を行う遷宮祭を行ってきた。南北朝の永和2年(1376)からの造営棟札が全て保存されている。600年を超えて一度も欠かさず奉仕されてきた記録は全国に例がなく、安政3年(1856)までの27枚は国の重要文化財に指定されている。

唐猫様
仁科神明宮には、「唐猫様」と伝わる動物を模った木像が残されている。風化が激しいが、元来は、神前に置かれた狛犬に似た像と考えられている。当地に残る民話では、唐猫様は雨乞いの神様で、旱魃の時、この像を筏の丸太に縛り付けて高瀬川に流し、水に落ちたら拾い上げて神明宮に戻すと雨が降るという。

神宮寺跡
三本杉手前の左手に神宮寺跡がある。仁科神明宮の神宮寺は、江戸時代には高野山西禅院の末寺として栄えていたが、明治維新廃仏毀釈で取り壊された。仏像などは現在、盛蓮寺に保管されている。仁科神明宮の祭神は天照大神だが、神仏習合では天照大神大日如来の仮の姿とされるため、御正体は大日如来を表現したものになっている。

穂高神社の本宮
海神(わたつみ)族の祖神である穂高見命を祭神に仰ぐ穂高神社の本宮(里宮)は、信州の中心ともいうべき安曇野市穂高にある。奥宮は北アルプス穂高岳の麓の上高地に祀られており、嶺宮は穂高見神が降臨したとされる奥穂高岳3190m)の頂上に鎮座している。創建は不詳。安曇郡に定着した安曇部氏により祖神が祀られたのが創始とされる。安曇氏の初見は、正倉院宝物の布袴にある天平宝宇8年(764)の墨書である。穂高神社の文献の初見は、天安3年(859211日に「宝宅神」に対して従五位下から従五位上への神階昇叙がなされたという記録である。『延喜式神名帳』では名神大社に列している。

拝殿
拝殿奥に本殿三棟を垣間見ることができる。中殿の祭神は、穂高見命。別名を宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)。綿津見命の子。左殿の祭神は、綿津見命。右殿の祭神は、瓊瓊杵命。三棟の右手にある別宮の祭神は、天照大御神。中殿は穂高造といわれる穂高神社のみの独特の形式で、千木と勝男木が載せられている。その二本の勝男木が中央から左右の千木に斜めに立てかけられ、一説では釣り竿や船の櫓を水辺で立てかけた形という。海神を祀る神社に相応しい様式と見られる。

若宮社の末社
若宮社の末社群、左からほぼ隠れている八坂社(素戔嗚尊)、事比羅社(大物主神)、子安社(木花開耶比売命)、保食社(宇気母智命)、四神社(少名彦名命 八意思兼命 誉田別尊 蛭子神 猿田比古命)、一番右が摂社・若宮社(阿曇比羅夫、信濃中将)。

若宮社右手にも末社
一番大きな摂社・若宮社の右手にも、疫神社(素戔嗚尊)、秋葉社軻遇突智命)、八幡社(誉田別尊)、鹿島社(武甕槌命)の末社がある。

摂社の若宮社
摂社の若宮社に祀られている阿曇比羅夫は、穂高神社の祭神・穂高見神の後裔であり、安曇氏中興の偉人。若宮社の相殿に祀られている信濃中将は、御伽草子のものぐさ太郎のモデルとされる有名な人物。ものぐさだった若者(実は仁明天皇の孫だという)が、文徳天皇の御宇、甲斐・信濃の国司として国を治め穂高神社を造営したという。

阿曇比羅夫之像

阿曇比羅夫之像が境内入口近くに立っている。阿曇比羅夫は、七世紀中期に対朝鮮半島関係に活躍した官人、将軍。阿曇山背比良夫とも記す。大仁の冠位で百済国士を務めていたが、皇極元年(642)舒明天皇の死去に対して派遣された百済の弔使を伴い帰国し、百済の国情の乱れを報告した。百済義慈王に追放された王子翹岐(ぎょうぎ)が来朝した時、自分の家で保護した。斉明7年(661)百済が唐と新羅の連合軍により攻められ危急に陥った時、百済救援の前将軍に任ぜられ、後将軍阿部引田比羅夫らとともに軍を率いて渡韓することになり、天智元年(662)外征軍の大将軍として船170隻を率いて出征し、百済王子余豊璋を本国に送還して即位させたが、翌年白村江で戦死し、日本は大敗し、百済は滅んだ。当神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、その日は阿曇比羅夫の命日とされる。

これで栂池高原などの安曇野の昨夏の旅は終わった。