半坪ビオトープの日記

瀧原宮


伊勢志摩巡りの最後に、内宮の別宮で一番離れている瀧原宮を訪れた。瀧原宮は、伊勢市を流れる宮川の河口から約40km上流の、宮川支流大内山川が流れる度会郡大紀町滝原にある。境内は鬱蒼とした森に囲まれている。

瀧原宮の宮域44haは、後ろに山を控えて南面し、すぐ前には東から西へと流れる枝川があり、それが南から北へと流れる大川に落ち合うT字型の地形である。鬱蒼とした森の中の参道をしばらく進むと宿衛屋がある。

宿衛屋の左向いに忌火屋殿が建っている。切妻、妻入、素木造、屋根は板葺で煙出しが付いている。手前には目隠しの蕃塀が立っている。

忌火屋殿の先には、吹き抜けの修祓所が建っている。建物はかなり大きく、屋根の下には案と幾つかの胡床(折りたたみ椅子)が並べられていた。

宮域内の鬱蒼と茂る杉の大森林は、他に比類少なく、自然林の典型であるといわれている。参拝者も見当たらず、ひっそりとした境内だが、参道は砂利が撒かれて整然としていた。

やがて古殿地が見えてきて、その先に新しい社殿が姿を現した。一番手前の明るい砂利が敷かれているのが瀧原竝宮の古殿地だが、左にある小さな覆屋は見えない。新しく小さな覆屋が見えるのは瀧原宮の古殿地である。その右の一段高くなった所は、御船倉(みふなぐら)が見えるので若宮神社の古殿地であろう。その右手に見える社殿が瀧原竝宮であり、その右手に瀧原宮が建っていることになる。御船倉は、倭姫命が使用した御船が納められているとされ、御船倉を持つ別宮は瀧原宮のみという。

瀧原竝宮の社殿の奥(右手)に瀧原宮があるので、そこから見ていく。倭姫命世記によると、垂仁天皇の皇女倭姫命が、宮川下流の磯宮より天照大神を祀る地を探すために上流へ遡ったところ、宮川支流大内山川の流域に「大河の瀧原の国」という美しい場所があったので草木を刈り新宮を建てたが、その後すぐに神意により現在の内宮のある伊勢市宇治館町に新宮(五十鈴宮)を建てたため、天照坐皇大御神御魂を祀る別宮となったとされる。神宮ではこの説を採るが、一般にはこの話は伝説上の話であり、なおかつ『倭姫命世記』が史書とされないため、起源は不明とされる。天照大神を過去に祀っていた場所を元伊勢と呼ぶが、別宮とされたのは瀧原宮だけである。延暦23年(804)の『皇太神宮儀式帳』および延長5年(927)の『延喜太神宮式』には、天照大神の遥宮(とおのみや)と記述されており、それ以前からあったと考えられ、両資料から創建当初、瀧原竝宮瀧原宮に含まれ、延長5年までに独立したと考えられている。

瀧原宮の祭神は天照大御神御魂の和御魂(にぎみたま)、瀧原竝宮は荒御魂とされる。両別宮とも内宮に準じた祭事が行われ、祈念、月次、神嘗、新嘗の諸祭には皇室からの幣帛がある。

こちらが手前の瀧原竝宮である。両別宮とも社殿は同等であり、本殿は内宮に準じ内削ぎの千木と、偶数で6本の鰹木を持つ神明造で、萱葺である。本殿周囲には瑞垣と玉垣が配され、御垣にはそれぞれの門がある。

瀧原宮の右手の一段高い地には、瀧原宮の所管社である長由介(ながゆけ)神社がある。祭神は長由介神で、由緒は不明であるが御饌の神とされることから豊受大神の御霊あるいは分霊とする説がある。長由介神社に、同じく所管社の川島神社が同座する。祭神は川島神とされるが、詳細は不明である。社殿は、内宮に準じ内削ぎの千木と、偶数で6本の鰹木を持つ神明造で、板葺であり、門のある瑞垣が配される。

長由介神社のさらに右手に若宮神社がある。祭神は若宮神で、滝原ゆかりの水神とされるが、詳細は不明である。社殿の構成は、長由介神社と同じである。
これで7月下旬の伊勢志摩巡りを終えた。外宮・内宮のほか、伊雑宮瀧原宮など多くの別宮を見て回り、伊勢神宮にまつわる諸問題も考えることができて感慨深かった。