半坪ビオトープの日記

内宮、荒祭宮


玉垣南御門から戻り、正宮の西側の板垣に沿うように右に折れると、荒祭宮に向かう参道がある。参道の左手には御稲御倉(みしねのみくら)が正宮の方角(東)を向いて建っている。社殿は高床の切妻屋根、千木・鰹木を備えた正宮と同じ唯一神明造で、内宮の東西宝殿や外幣殿に酷似している。正宮を見ることはできないので、規模は小さいがここでゆっくりと唯一神明造の建物を見ておくと良い。神宮神田で収穫された稲は、抜穂(ぬいぼ)にして御稲御倉に収められる。内宮の祭祀に合わせて取り出され(御稲奉下)、稲扱(いねこき)、籾摺、七分搗きにした後、忌火屋殿にて神酒・御餅・御飯(おんいい)に調理され、神前に供される。古代より存在したと考えられ、平安時代には校倉造で、千木・鰹木はなかったとされる。天正年間(1573~92)に神明造で復興され、以後式年遷宮ごとに建て替えられている。祭神は、平安時代の『大治御形記』には保食神(うけもちのかみ)とあり、鎌倉時代の『神名秘書』では倉稲魂(うかのみたま)とするが、明治以降は御稲御倉神が祀られている。
参道の突き当たりに見えるのは、外幣殿である。

正宮瑞垣内の東宝殿を内の幣帛殿とすれば、この外幣殿は、外の幣帛殿に相当する。古くは皇后や皇太子の幣帛や古神宝類を納めていたが、現在は古神宝類が納められている。社殿は高床の切妻屋根、千木・鰹木を備えた唯一神明造で、内宮の東西宝殿や御稲御倉に酷似している。

外幣殿の前を右に折れ、正宮の裏手に出ると、板垣北御門が見える。

板垣北御門の手前で左に折れると荒祭宮が現れる。内宮の境内別宮であり、祭神は天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)である。天照大神荒魂を祀る内宮の別宮としては境外に瀧原竝宮があるが、荒祭宮は内宮に月讀宮、月讀荒御魂宮、伊佐奈岐宮伊佐奈弥宮瀧原宮瀧原竝宮伊雑宮風日祈宮倭姫宮と、合わせて10ある別宮の中で第1位とされる。他の別宮より社殿が大きく、神御衣祭(かんみそさい)は外宮では行わないが、内宮正宮と荒祭宮では毎年5月と10月に行われる。

創建は、『神宮雑例集』によると垂仁天皇26年であり、内宮の正殿と同時に建てられたという。祭神は天照大神の荒御魂であり、神体は鏡である。『皇大神宮儀式帳』や『延喜式』では大神の荒祭宮と記載されるが、『倭姫命世紀』や『伊勢二所皇大神宮御鎮座伝記』などでは荒祭宮祭神の別名として、瀬織津姫八十禍津日神を記している。瀬織津姫は、『記紀』には登場せず、大祓詞に登場する祓戸四神の一柱で、災厄跋除の女神である。祓神や水神として知られるが、瀧の神・河の神でもある。八十禍津日神(やそまがつひのかみ)は、記紀神話の神産みの際、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓った時に生まれた神で、災厄を司る神とされる。
荒祭宮の祭事は、内宮正宮とほぼ同じで、祈年祭月次祭神嘗祭新嘗祭の諸祭には皇室からの幣帛があり、勅使は正宮に続き、内宮別宮のうち荒祭宮のみに参行する。
社殿は内宮に準じ、内削ぎの千木と6本で偶数の鰹木を持つ萱葺の神明造で、南面している。

荒祭宮からの帰り道はやや西を通り、忌火屋殿の先で表参道に合流する。合流点の左角には、注連縄が張られた二段の石段があり、石段上に石神として四至神(みやのめぐりのかみ)が祀られている。外宮にもあるが、神域の四方の境界を守護する神であり、社殿を持たない祭壇であり、磐座祭祀の形態を残す神社でもある。

四至神の角を右に曲がれば、表参道に面する五丈殿と神楽殿が建っている。